戦の前触れ
戦闘は終わった。だが、空気に漂う緊張感はまだ消えていなかった。指先に微かな痺れを感じる。針を振るい続けたからか、それともただの疲労か…わからなかった。
イレーネをそばに連れたまま、倒れたミュータント・ゴブリンの死体に近づく。放っておく気にはなれなかった。敬意などではない。ただの警戒だ。
「念のために……」
そっと呟き、能力を発動した。
「編み込みインベントリ」
死体は何の抵抗もなく吸い込まれた。他のゴブリンの死体も同じく。放置しておけば、他の魔物に食われるか…最悪、死霊として蘇るかもしれない。この世界では、死者が必ずしも死んだままとは限らない。
しばらくして、森の奥から他の冒険者たちが戻ってきた。中には負傷者を背負っている者もいた。即席の包帯で手当てされ、衣服には血が滲んでいた。太腿に矢が半分刺さったままの者もいた。
それでも――彼らは笑っていた。
「だから言っただろ、あの魔法陣は罠だったって!」
「お前、矢を逆に構えてたぞ!」
笑い声。それは崩れそうな精神を繋ぎ止める手段だった。少し…羨ましくも思えた。
ギルドに戻ると、そこは既に人で溢れていた。声、足音、金属製のジョッキがぶつかる音。騒がしくも秩序だった混沌。
誰とも話さず、空いた席に座った。イレーネは当然のように膝の上に座り、額を胸に預けてきた。その体温が、妙に落ち着く。
「エステル……いなくならないで……」
「絶対に離れないよ」
そっと髪を撫でた。肩を落とし、息をついた。戦いは終わっても、心の疲労は癒えなかった。
その時、場のざわめきが止んだ。威厳ある姿がホールに入ってきた。杖をつき、歴戦の空気を纏ったギルドのギルドマスターだ。手には書類の束。
「注目!」
低く響く声が空気を裂いた。
「報告によれば、複数の異常が確認されている。生息地を外れた魔物、瘴気に汚染された区域……そして最も懸念すべきは――ゴブリン・ロードの出現が“推測”されることだ」
笑う者、舌打ちする者、無言で立ち尽くす者。誰もが、その言葉に凍りついた。
「通常種か、変異種かは不明。直接の目撃もない。だが、兆候は揃っている。つまり、巣がある――“集落”が形成されている可能性が高い」
報酬が配られていく。負傷者、情報提供者、即席の地図を作った者――それぞれに銀貨が手渡されていった。
俺は席から動かず、イレーネの寝息を感じながらその光景を見ていた。
(明日から、何かが大きく動く気がする……)
そのとき、いつもの機械音声が頭の中に響いた。
《レベルアップしました! 現在のレベル:6》
パッシブスキル「針の扱い」Lv3 に昇格
ステータス上昇:STR +1、DEX +2、INT +1
深く息を吸い、目を閉じた。
これが始まりなのか、嵐の前の静けさなのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある――
もう、俺は一人じゃない。
それだけで、十分だった。




