千の針
喉がカラカラだった。
心臓の音が耳をつんざくほど響いていた。
それでも、止まれなかった。
止まってはいけなかった。
ゴブリン剣士は最初に倒れた。
ローランドが盾で押さえ、カエルが短剣で仕留めた。
素早く、効率的で、ほとんど無駄のない動きだった。
だが、そいつは違った。
黒ずんだ肌。異様に整った弓の構え。
そして…あの歪んだ笑み。
何かを楽しんでいるような、残酷な確信。
空気が変わった。
緊張が背筋を這い上がってきた。
「イレーネ、あの木の後ろに隠れて。何があっても出てくるな。」
「え…?」
「早く!」
彼女には絶対、何があっても──
何があっても傷つけさせない。
ゴブリン変異体がまた弓を引いた。
勝利を確信しているかのような、あの凶悪な笑み。
俺は…考えなかった。
思考なんて、もうなかった。
ただ、体が叫んだ。
──走れ!
だから、俺は走った。
愚かだとわかっていた。
自殺行為だとわかっていた。
だが、止まれなかった。
矢が空気を裂く音。
頬を裂く痛みと、温かい血が滴る感触。
それでも、止まれなかった。
止まれば、イレーネが殺される。
止まれば、また俺は…“無能”に戻る。
──二度と、あんな想いはしない!
針を両手で握った。
剣じゃない。魔法の武器でもない。
でも、俺にとっては──唯一の誇りだった。
「──千の針!!」
どこで聞いたのか思い出せなかった。
前世のアニメか、ゲームの技かもしれない。
でも言った瞬間、体が勝手に動いた。
熱い。筋肉が悲鳴を上げる。
だが、針だけは…俺の意思に応えた。
肩。
足。
胸元。
鎖骨。
一突きごとに、ゴブリンが叫ぶ。
「ギイイイイイィィィ!!」
その悲鳴が、音楽のように響く。
生き残るための交響曲。
視界が赤く染まる。
手は震え、握力は限界に近い。
だが、止まれなかった。
前へ。
前へ。
それだけが、俺の全てだった。
そして──
見えた。
肋骨の隙間。
呼吸の乱れ。
あの笑みが、恐怖に変わった瞬間。
俺の体は自然と傾き、両手で針を構える。
──突き刺す!
骨の感触。肉の裂ける感覚。
心臓を貫いた確かな手応え。
ゴブリンの瞳が見開かれ、
やがて光を失っていった。
そして、崩れ落ちる。
血に濡れた針。
震える足。
火照る頬。
それでも、俺は立っていた。
「エステル…?」
イレーネの小さな声が、木の陰から聞こえた。
振り返り、俺は笑った。
血まみれの顔で、
震える心で、
それでも、笑った。
「大丈夫。もう大丈夫だよ。」
──嘘だったけど。
彼女には、それで十分だった。




