洞窟の主
ゴブリンを音もなく倒したとき、俺はほんの一息だけ呼吸を整えた。
イレーネが静かに近づいてきた。
まるで怯えた子猫のように、小さな足取りで俺の隣へ。
その手が、そっと俺の腕を掴む。
冷たくて、小さい。
この世界の敵意に満ちた現実の中で、彼女だけが……俺の安らぎだった。
「……行こう。終わらせよう」
洞窟の入口に近づくと、
中から橙色のゆらめく光が漏れていた。
魔法じゃない。焚き火の火だ。
不格好な焚き火――けれど、確かに熱を生んでいた。
そっと覗き込むと、そこにいたのは――
あの三匹のゴブリン。
そして、その奥には……
**“奴”**がいた。
オークだ。
だが、俺の知っているようなオークじゃない。
太ってもいない。ブタのような顔でもない。
醜い怪物ではなく……戦士だった。
身長は二メートル以上。
灰色の肌に、黒ずんだ筋が浮かんでいる。
片目には汚れた布が巻かれ、残った片目は金色に光っていた。
全身に傷跡があった。
特に目立つのは、脇腹の傷。
草や汚れた布で巻かれ、粗末な縄で結ばれていたが……
応急処置としては、十分すぎるほどだった。
その足元には、死体があった。
……ゴブリンの死体だ。
手足を食いちぎられた者。
首を失った者。
血が乾き、肉は噛み跡だらけだった。
(……食ったのか? 仲間を?)
その思考を遮ったのは、湿った音だった。
ゴブリンの一匹が、角ウサギの死体を差し出す。
オークはそれを掴み――そのまま首元にかぶりついた。
骨が砕け、内臓が滴り落ちる。
ゴブリンたちは歓声のような声をあげて笑っていた。
イレーネの手が震えた。
叫びそうになったのを、必死に堪えている。
その時だった。
オークが、顔を上げた。
鼻孔が広がる。
匂いを嗅いでいる――こちらの匂いを。
「グラー……人間……」
ゾクリとした。
見つかった。
視られたわけじゃない。
聴かれたわけでもない。
嗅がれたのだ。
その声に反応して、ゴブリンたちが動いた。
槍を持っていた一匹が、大きく吠えた。
残りの二匹は素早く死体の骨を掴み、棍棒のように構える。
「クイモノ……オーク、ツヨイ……!」
意味は曖昧でも、意図は明白だった。
俺はイレーネに顔を向け、囁いた。
「……離れてて。もし何かあったら、全力で石を投げて」
彼女は黙って頷いた。
目には不安が滲んでいたが――覚悟もあった。
俺は立ち上がった。
空気は、血の匂いと煙で満ちていた。
心臓は早鐘のように打っていたが、手は――静かだった。
一歩踏み出し、俺は構えた。
左足を前に、体を半身に構える。
右手は背中に引き、針を構える。
指は、針の糸穴に通していた。
残りの指は、自然と力加減を調整する。
左手は前に出し、まるで“寸法”を測るように。
誰かに教わったことはない。
だけど、これが俺のやり方だ。
(縫うように、運命を貫く。俺の針で)
ゴブリンたちが前へ出る。
唸り声をあげながら、武器を振り上げる。
オークは……座ったまま、見ていた。




