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四の段 猫の怪 ③

 ひよりが執務室へと戻ってきた時には、時刻は始業時間を過ぎていた。先ほどはまだ来ていなかった職員たちも全員揃っている。


「十和さん、来るの遅いよ」

 話しかけてきたのは上司で主任の渡良瀬だった。

「す、すいません」

 ひよりは渡良瀬が出社する一時間以上前に出社している。自身の執務机を見てもらえると、遅刻した訳ではないと分かるはずだが、始業時間に居なかったことは事実なので素直に謝った。

「困るよ。勤怠の出勤時間は八時四十分でつけといてね」

「は、はい……」

 ひよりが遅刻ではないことは、この場にいるほとんどの職員が知っているはずなのに、彼女を庇って真実を話す者は誰もいなかった。


「あとこれ、今日中にやっておいてほしい業務」

 そう言って渡良瀬は、百科事典ほどの厚みがある書類の束をひよりに渡す。

 仕事量のわりに「名もなき事務処理」に分類される、いわゆる「雑務」であった。

「分かりました!」

 ひよりは書類の束を受け取って、大切そうに腕に抱きかかえる。

 そして踵を返そうとした渡良瀬に「あの」と声をかけた。

「ん?」

「……怪異にまつわる仕事の依頼はありませんか?」

「何件か来ているが、別の先生へまわすよ」

「……わかりました。もしそれでも手が足りないようなら、こちらにも回してください」

 渡良瀬は返事をすることなく、自席へと戻っていった。

 

 入社した日から奇異の目で見られ、冷遇されていたひよりだが、本格的な嫌がらせが始まったのは、先日浦良に依頼した怪事件を解決した直後だった。

 浦良は怪異対策保安協会内で、気難しい除霊師として有名で、ひよりの前任者も含め、今まで何人も担当者が入れ替わっている。中には初日で、担当を断られた者もいるほどだ。


 一人前の仕事を任されるまで時間がかかると思っていたひよりが、入社早々に除霊師の助手を頼まれた際は、内心喜んだ。だがここ数日の職員たちの様子を見ていると、あえて気難しい浦良の助手にあてがい、担当初日で一刀両断されて泣いて帰ってくる自分を嘲笑いたいがために、そうしたのではないかと思えてくる。

 事実、浦良から自分に関する苦情が入ることなく、先日無事に事件を解決した直後から、嫌がらせはエスカレートした。自席で業務をしている自分の横を通る際に「女を使って取り入った」「バイタ」など、小声で暴言を浴びせられるようになった。挨拶しても無視され、一言もなく以前よりも沢山の雑務が回ってくる。渡良瀬は無視しないだけ、他の職員よりマシな方だ。極めつけは、先ほどの机に置かれた使用済み避妊具である。

 

 ひよりは気づかれない程度に溜息をついた。

 

 自分への嫌がらせは、ある程度は耐えられる。だが自分の所為で、浦良へ仕事を回してもらえないとなると、心が痛んだ。浦良も生活がかかっている。このまま浦良への仕事を回してもらえないのであれば、迷惑をかけないためにもこちらから助手を降りたいと申告するべきか……。考えれば考えるほど、身体が重くなっていく。


 とりあえず、今は目先の仕事をせねば。

 ひよりは自席に戻って、雑務の束と睨めっこを始めた。



 ひよりが集中の糸を()いたのは、大きな壁時計の針が十二を指した頃だった。昼休みの合図でもある「ボーン」という時計の音が木霊する。


 職員たちはそれぞれ大きく伸びをしたり、愛妻弁当を広げたり、外で昼食をとるため席を立ち上がったりと、ざわざわしだす。


 他の職員たちの様子を一通り見届けたひよりは、鞄を持って立ち上がった。

 中庭で昼食をとるためだ。

 ひよりにとって執務室は居心地が悪いことこの上ない。だからいつも、人のいない中庭で一人、家から持ってきた弁当を食べている。


 中庭の石段に座り、膝の上で風呂敷包みを広げた。

 弁当の中身は、卵焼き、ほうれん草のおひたし、ねこまんま。朝家を出る前、出来合いのもので手早く作った。質素だが、ひよりはねこまんまが好きだった。

 ワクワクしながら、箸で鰹節をつつく。


「にゃあ」

 ひよりが顔を上げると、今朝がた見かけた子猫が遠巻きにこちらを見ていた。

「お前も食べる?」

 ひよりは箸で白米と鰹節をとり、三歩ほど前に進んで、地面に置いた。そして三歩下がって、再び石段に腰をかける。

 子猫はしばらくこちらを伺っていたが、ひよりが弁当を食べ始めると、そろりそろりと近づいて、地面に置かれたねこまんまを食べだした。

「美味しい?」

 子猫は食べるのに夢中だ。その様子にひよりは自然と顔が綻ぶ。

 子猫を眺めていると、ひよりは違和感を覚えた。

 子猫の片目は潰れ、胴体には怪我をしたような跡がある。先ほどは何も思わなかったが、思い返せば、近づく際にはびっこを引いて歩いていた。

 ひよりは子猫の痛々しい姿に胸が痛んだ。

 ねこまんまを美味しそうに食べ終えた子猫は顔を上げて、ひよりの方へ近づいていく。

「おかわり、食べる?」

 そう言って、再びねこまんまを箸でつまんで、地面に置いた。

 猫は小さな身体を揺れ動かせながら、ねこまんまを食べていた。



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