四の段 猫の怪 ②
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朝の七時に、ひよりは職場へと出社した。
始業時間は八時二十分からだが、毎日、一時間以上前に職場へ着くようにしている。
そのため、ひよりがいつも一番乗りだ。
窓を開けて、空気の入れ替えを行う。
誰もいない朝の職場は、空気が澄んでいて心地いい。
昨晩退社前に洗った、職員たちが使っている湯呑や食器類が乾いていることを確認して、水屋へと戻す。それから、厠の掃除。厠の掃除は、案外身体を動かす作業なので、初夏の気候も相まって、背中にうっすらと汗をかいた。始業時間前に、既に一仕事終えた気分になる。厠の掃除を終えて、執務室へ戻ろうと廊下を歩いていると、背後から出勤する職員二人の話声が聞こえた。
……もう、そんな時間か。
「おはようございます」
ひよりは後ろを振り返り、元気よく挨拶したが、職員二人はひよりの方を見ることなく無視して去っていく。
胸がぎゅっと締め付けられる感覚を覚えながらも、ひよりは二人のあとをついて、執務室へと戻った。
執務室には既に五人ほど職員が出社していた。ひよりは、その五人に向けて「おはようございます」と元気に挨拶をする。
しかし先ほどの二人同様、返事はなかった。
肩を落として、ひよりは自分の席へと戻る。
自分の執務机の上を見た瞬間、ひよりは驚きのあまり「え……っ!?」と声を上げた。
机の上には、使用済みの避妊具が置かれている。
職員たちは下卑た笑みを浮かべ、ひよりの方を見てひそひそと何かを言っている。
ひよりは辟易した。
まさか、エリートとして名高い内閣内務省管轄の職場で、こんな低俗な嫌がらせをされるなんて。
泣きそうになるのを堪えながら、ひよりは近くに置いてあった藁半紙で避妊具を包み、中庭の可燃物焼却炉へと小走りに駆けていった。
中庭の焼却炉へ、藁半紙ごとそれを投げ入れる。
周りに誰もいないことを確認したひよりの目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。その場にしゃがみ込んで、ハンカチで涙を拭う。
女の身でありながら、男でも就職が難しいとされる職場に就職することの過酷さは、覚悟の上だった。
雑用全般は当たり前だし、冷遇されることも仕方がない。一人前の仕事を割振られるまでになるには、男以上に時間と根気が必要だろう、と。
だが、こんなに露骨な嫌がらせをされるのは、予想の斜め上だった。悔しくて悲しくて、涙が止まらない。
怪異対策保安協会への就職が決まった際、親戚のほとんどが眉をひそめた。女は知識を身に着けることを歓迎されない。
出来るだけ条件のいい男と結婚し、その男に仕え、子を成すことが、女にとって一番大切とされる時代だ。しかも女の場合、結婚は若い方がいい。女学校に通っている途中か、卒業後すぐに結婚するのが、世間では良いとされている。女学校の友人たちは、ほとんど卒業を機に結婚した。そのため、怪異対策保安協会へ就職すれば、縁談が遠のくのではないかと、親戚たちは苦々しい顔で言った。
だが父だけは、娘の就職を心から喜び、自慢げに親戚や近所の人たちに話すのだ。就職の内定をもらった際も「お前は俺の誇りだ」と言って、抱きしめてくれた。
ひよりの脳裏に、その時の嬉し涙を浮かべた父の顔が浮かぶ。
今朝家を出る際、弟の夕夜にも「仕事が大変そうだけど大丈夫か?」と心配された。
……こんなことで負けるものか。
自分を応援してくれる父と弟がいる。今は虐げられ、理解されなくても、懸命に仕事に打ち込めば、いつか認められる日が来るはずだ。
ひよりは涙を拭いて、前を向いた。
すると、こちらを遠くから見つめる野良猫と目が合った。
白地に茶色の斑模様をした小さな猫。まだ子猫だ。
「にゃあ」
子猫は怯えるような瞳でこちらを見つめながら、か細く啼いた。
可愛らしい子猫に、ひよりの心は和む。
笑顔で、ひよりも「にゃあ」と言った。
子猫はしばらく、じっとこちらを見ていたが、すっと草むらへと逃げるように去っていった。
(私もそろそろ戻らなきゃ)
ひよりはそっと立ち上がって、執務室へと戻っていった。




