第48話 仲の悪い兄弟
ルシエンとフルスがダイニングルームに入ったとき、長机に並べられたビュッフェを、アンナは一人ですでに半分ほど平らげていた。ジョーも彼女に負けない勢いで、皿ほどある巨大なプディングに体を埋めて無我夢中に食べている。メイドたちは一人と一匹の食欲に青ざめながら、空になった器に料理を足すために忙しく動き回っている。
ルシエンはアンナとジョーが羨ましかった。どんなに大変な一日でも、彼女たちは美味しいご馳走で快く締めくくることができる。悲しみや憂鬱とはまるで無縁のようだ。ルシエンは皿とフォークを取った。料理は間違いなく絶品だが、少しも喉に通らなかった。
夜の闇がすっかり辺りを包み、空は銀の砂が散った黒い幕のように、頭上のはるか遠くに張っている。
マダム・エサレンの豪邸は街から離れた緑豊かな山の中腹にある。石造りの建造物は古風で荘厳、壁面には天界の主神達が彫り込まれている。欧風の高級ホテルを思わせる立派な佇まいは、神々しいまでにライトアップされている。
コの字に囲まれた庭の中央には大きな噴水がある。円状の池の中心を陣取るのは精巧に削りだされた大理石の像だ。羽根を広げて飛び立とうとするドラゴンを、裸の女神が手綱を握って引き留めている。ドラゴンの両目に青い結晶が埋め込まれ、口から透明な水柱が流れ落ちていた。
なかなか寝つけられないルシエンはバルコニーでぼんやりしていた。夜の大気は太陽の熱量を失い、まだ水気が残る肌をひんやりと撫でている。遠くに見える街の明かりが色とりどりの光の点となり、夜空と大地の境を点描画のように描き出している。部屋の電灯を消し、ルシエンは闇に身を浸りながら遠い彼方を虚ろに眺め、睡魔の訪れをじっと待った。
ガラス戸が開けられた音がした。横に目をやると、隣の客室からフルスがバルコニーに出てきた。全身をすっぽり覆うマジャマの襟はずれていて、いつも切れに梳かれている髪も少し乱れている。ちょっと無防備な姿をルシエンは興味深そうに見つめた。フルスは柵に肘を付いて佇み、遥か彼方に視線を投げた。断罪者たる鋭い気迫は、今では感じられない。どんよりとした暗緑色の影が瞳の奥深く出渦巻いている。背後から射す室内の明かりがかすかに反射し、淡い光のモヤがその体を包んでおり、深い暗黒の夜景色から浮かび上がって見える。幻覚なのかと、ルシエンは目を細めた。
フルスの白くて透き通った指先が、ざらついた柵の表面を無心に滑った。ルシエンに気付き、顔を向けた。
「まだ寝てなかったの」
「そっちこそ、夜遅くまで起きているじゃないか」
「そっちにいってもいい」
「いいよ」
フルスは柵を乗り越え、4階の高さを物ともせず、軽やかな身動きでルシエンのいるバルコニーに飛び移った。まるで高所が得意なネコのようだ。近づくフルスに、バルコニーの空間が一気に狭くなった。フルスはルシエンの横に並んだ。二人はしばらくの間、沈黙を分かち合いながら夜景色を眺めた。
ルシエンはアリスについて考え、また隣にいる帝国の執法官について考えた。それから、様々な思い出が浮かび上がっては記憶の海底に沈み、沈んではまた浮かび上がってくる。頭の中で過去と現在が、シーンを切り詰めた映画のように入り乱れ、ルシエンは夢の中にいるような気分だ。この数か月間は色んなことが起こった。これほど濃密な時間を今まで過ごしたことがあったのだろうか。
「姉の姿を見て、取り返しのつかないことになったと悟った」
静かにこだますフルスの声が、ルシエンを現実に呼び戻した。
「君は師匠のことがあまり好きじゃないようだが、今はすごく悲しそうで、後悔しているように見えるよ」
フルスの口元がギュッと結んだ。
「あなたの言う通り、私は姉が嫌いだった。彼女があの様なったのも、ある意味自業自得よ」
「血は水より濃いと良く言うじゃないか。仲が悪くても、血のつながった家族が居るだけで、僕は君が羨ましいよ」ルシエンは夜空に向かって弱々しいため息を吐いた。「この世界で僕と繋がっている人は……誰一人いない」
束の間の沈黙は、フルスの憐れみと同情だった。フルスはそれを敢えて口にしていないことを、ルシエンは察していた。
「時々、家族っていうのは見えない腐った糸で結ばれ、引きずり回される皮肉なもののように思う。姉は自分勝手で、衝動的で、私から色んなものを奪った。そして最後はよぼよぼになって私に面倒を一生見てもらう、なんてね」
「何があったの」
「私がなんで性別がないのか、知りたい?」
ルシエンはこっくりと頷いた。
「薬を盗まれたのだ。自分の姉に、ね。家の定めでは、私は女に、姉は男になるはずだった。ところが姉は、ジェネシア氏族の長から授かったたった一瓶の赤薬を盗み、ただの赤い水にすり替えた。13歳になった私は知らずにそれを飲み、初潮が来る日を辛抱強く待ちながら思春期を過ごした。ところが体の変化はいっこうに現れなかった。“赤子の門”が開くどころか、胸の膨らみさえ出てこなかった。一方で、本物の赤薬を飲んだ姉はみるみるうちに美しい女性へと成長した」
フルスの口からさらりと流れ出た真実に狼狽え、ルシエンは返す言葉を失った。しばしあんぐりと佇んでから、彼は辛うじて話を繋げた。
「……そこまでして師匠は女になりたかったのか」
フルスの口調は案外軽かった。
「母親の言いつけで、私はあるハイエルフの名門家庭と婚約することになっていた。そこの家主は地位も名声もお金もある資産家の男だった。おまけにルックスも良かった。母親は私を彼の未来妻として選んだ。小さい頃から、私は姉より贔屓されていたから、当然の流れだった」
「同じ腹で生んだ子なのに、贔屓するのか」
「そう、親というのは理不尽な存在だ。幼いころの私は姉より大人しく、親の言うことを良く聞いていた。悪戯したり癇癪を起したりする姉より、ずっと都合の良い子供だった。だから大資産家の妻という裕福で煌びやかな人生を手にするチャンスを、幸運にも大人たちから与えられた」
フルスは遠い町の光を見据えたまま、鼻でせせら笑った。
「姉は嫉妬で腸を煮え返していたに違いなかった。だから私の人生を壊すことで、生まれたときから抱えていた不平不満を晴らそうとした。いや……彼女にそんな執念があったというより、もっと単純な感情だったのかもしれない。小さな子供たちがひと切れの美味しそうなケーキを取り合うように。母親は仕方なく姉をその男に嫁がせた。しかし運命は皮肉だった。壊れたのは私の人生ではなく、姉の人生だった。幼い私たちが知るはずもなかった貴族の闇に、姉は自ら首を突っ込んだのだ」
「まさか、前に話してくれた種女のことか」
「うん。姉は種女になってしまった。私の代わりに」フルスは目を伏し、瞳を湿らせた。
また沈黙がルシエンを襲った。喋っているフルス本人よりも、ルシエンの方が感情を動かされているのは確かだ。
「師匠の資産家妻としての暮らしは、ずさんだったようだなあ……」
「運命は皮肉に満ちている」フルスは苦笑いして続けた。「子供が作れないということが良いふうに転じ、私は貴族たちの権力闘争や家同士のしがらみから外れた。そしてかねてから憧れだった警官の職に就くことができた。仕事に専念していれば、自分が女か男か思い悩むことから解放された。私を女と見間違えて言い寄ってきた男、男と見間違えて言い寄ってきた女も何人かいた。私はその都度、相手の性別に合わせて自分の身なりと振る舞いを変え、恋愛経験に困ることもなかった」フルスは自嘲に似た含み笑いを聞かせてから付け加えた。
「なんだか都合がよさそうだな」ルシエンは些か感心した。
「もう、どうでもいいけど」フルスは口調をすこし強めた。「私は心も体も、男でも女でもないのだ。さて、話の本筋に戻ろう」
話の続きが気になって仕方がないルシエンにフルスは真剣な表情でつづけた。
「ある日の夜中、家のドアを勢いよく叩きつける音に私は眠りから起こされた。ドアを開けて見ると、すっかりやつれていた姉が、助けてくれと死に物狂いで私にしがみついたのだ。顔を除いて、姉の体のあらゆる所があざや傷で覆い尽くされていた。驚いた私は彼女を家に入れ、事情を聞いた。衝撃的な事実を聞いた私は一晩中眠れなかった。彼女は夫や、夫の一族から酷いいじめを受けていたのだ」
「どうして」
「平民から見た貴族の世界は、裕福で煌びやかで、権力もあってさぞ羨ましいだろう。でも本当のところ、醜いエゴと姑息な争いがたっぷり入った毒の巣だ。貴族の中には、更なる細かい身分の階層がある。両親が共に覚者ではないことで、私と姉は最下位の身分“成り上がり”だそうだ。姉が―私が嫁ぐはずだった家は、何世帯も覚者が覚者を輩出させている高貴な家柄で、圧倒的な身分の差があったのだ。それだけでもいじめのきっかきには十分だったが、姉の場合、子供を死産させたことが火に油を注いだ」
ルシエンは釈然とせずに頭を振った。
「それだけで、一人の女をそこまで痛めつけるのか」
「死んだのはただの子供じゃない。覚者となるはずの子供だったのだ。貴族の権力競争において一つのやり方は、家系にいる覚者の数を競うことだ。どの家も、覚者になる子を喉から手が出るほど欲しがっていた。やっと出来た覚者の胎児を流産させたのだから、姉に一家のヘイトがすべて集中したのだ」
「助けてやったんだな」
フルスは瞼を閉じ、息を吸った。
「出来れば姉の夫を検挙したかった。しかし大資産家の家系にメスを入れることなど、警官の下っ端だった私にそんな権限は無かった。私ができたことは、姉を匿うことだけだった。幸い、下っ端でも警官は警官、現行犯逮捕の権力は備えていた。私の目が届く限り、奴は姉に手荒な真似はできない。暴行罪で捕まえることができるのだ。
それから姉はしばらくの間私と一緒に暮らし、夫の追手から身を潜めていた。姉とは小さい頃から気が合わないので、一緒に生活するのに気が進まなかったが、仕方がないと思った。
ただし、どうしても不快だったのが、彼女の奔放さだった。女であることを私に見せびらかすように、彼女は外で男を作っては私の家に連れ込み、夜な夜な情事に更けていた。私は耳栓をして寝るハメになった。でも、姉の傷ついた心がそんな退廃した行為で癒されるのなら、私は我慢することを選んだ」
一気に話すと、フルスは呼吸を整えるために間を置いた。
「ところが、一生許せないと思った出来事が起こってしまった。ふしだらになった姉は、当時付き合っていた私の彼氏に手を出した。ベッドの中でもつれ合っている二人に私はたまたま居合わせたのだ。彼氏は姉になんて言ったと思う? 『シリコンの乳房より本物ののほうがずっといい』って。
私はカッとなった。一生の怒りをすべてその場に撒き散らしたみたいに。それから姉は家から追い出してしまった。彼氏とも破局した。あの場面を思い出すだけで今にも反吐が出そうだ。堕落した姉と、私を女体の代用品として見ていたあの男、二人とも大嫌いだった。でも……」
フルスの指にぐっと力が入り、爪をバルコニーの柵に突き立てた。堪え切れなかった涙が零れ落ち、冷たい石の表面に沢山の染みを作り出した。
「姉はあれ以来、行方不明になった。それから二百年以上経った今、変わり果てた姿になって現れた。すべてが、私が感情任せに彼女を見放したせいだ……」
涙が静かにフルスの頬を滑り落ちた。フルスは表情を変えず、じっと黙り込んだルシエンはどうしてよいか分からず、ただその様子を見つめていた。




