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6時に目が覚めた。
7時にマンションの前に迎えに来るというのがリーダーの言葉だった。
今までとは様子が違う。今まではどんな場合でもリーダーは「いきなり」姿を現した。前日の予告は初めてだ。長身の娘と情報交換をしたかったがもう会う手段はない。迎えを拒否したらリーダーはそれこそいきなり部屋に乗り込んでくるだろう。どこかに逃げ出しても、突然現れるはずだ。すべてこちらの行動は監視されている。リーダーの言うなりに行ってみるしかないのだ。
昨晩、コンビニで買ったおにぎりを口に放り込み、メイクを済ませると悩んだ。何を着て行くかだ。しょっちゅう服装のことを指示されてきた。「なんて恰好をしてるんだ」といきなり殴られてもかなわない。昨日のこともあるし、またダークグレーのスーツを着て行くこととした。
7時ちょうどにマンションの前に立った。リーダーの姿は見えなかった。
不思議に思っていると、20年は経っているのではないかと思われるようなポンコツのワンボックスカーが前に止まった。この世界では自動車はほとんど見かけない。軍隊の駐屯地に軍用車が、そして街中には商用車がわずかに走っているだけだ。人が乗るための自動車を見かけるとは極めて稀だ。それがこのマンションにやってきたのだ。リーダーの姿もないし、廻りに人もいないところを見ると、車の目標は私しかいない。
目の前で停まった。運転手が降りてきた。中年だが白いブラウスに濃紺のサージのジャンパースカートを着ている女だ。これもまた労働者の制服(作業着)だろうか。これまでの作業着と違って、ブラウスは洗い立てで白が眩しい。この国で初めて見るジャンパースカートはテカリもなければ皺もない、カミソリのように尖った一本一本のプリーツが美しかった。年期の入った車体とは好対照だった。
「お迎えに上がりました。」
「私を?」
「リーダーの命令です。どうぞお乗りください。」
後部のスライドドアを開けると乗車を促した。
「揺れると思いますので椅子に腰を深く掛けてください。」
確かに揺れる。道は車輛用には作られていない、石畳の道だ。
まわりは、いつもの町の風景から徐々に薄汚いアパートが並ぶ宿舎のあった町のような光景にかわった。しかし、記憶にあるあの宿舎のある場所とは微妙に違う。宿舎の向こうにあった森もなく、大きな建物も丘もなく、何があるのかわからない。
町が薄汚くなるにつれ道路状態は更に悪化し、いつの間にか穴だらけの未舗装道路になった。激しく車は揺れた。吐き気がこみあげてきた。ヘッドレストにもたれたまま前方を眺めていたが吐き気は激しくなり冷や汗がびっしょり出てきた。
「すみません、気持ち悪くなってしまって、停めてくれないでしょうか。」
「申し訳ないが、急いでいるんでね。」
「吐きそうなんです。」
「汚したら困るよ。我慢するんだな。」
乗ったときの丁寧な口ぶりとはつっけんどんな対応になってきた。
「せめて、バケツかビニール袋か・・・」
「甘えるんじゃない。」
「そんな・・・」
突然の急ブレーキ、私は前席のヘッドレストに思いっきり顔面を強打しそのまま気を失った。
熱い日差しに照らされて目が覚めた。中古のワンボックスカーのシートに横たわっていた。舗装道路になったせいか、車の揺れはだいぶ収まっていた。床には恐らく私のモノらしい吐瀉物、スカートやストッキングにもべっとり着いていた。
「すみません、車を汚しちゃって。で、服も汚しちゃったんで・・・」
「いいよ、ほっといて。服はどうせ着替えるんだからそのままでいいんじゃないの。」
びっくりした。男の声だった。
運転席を見ると、作業服姿の中年の男性が運転していた。
窓の外を見た。大勢の女に混ざって男も大勢いた。そして廻りは車の大行列、渋滞中のようだ。元の世界なのだろうか。
「運転手さん、いつ交代したんですか。気を失っていて気付かなくて。」
「前に誰が運転していたかなんて知らんな。俺が乗ったときには、後ろにあんたがひっくり返っていただけだ。他に誰もいなかったからな。」
つっけんどんな返事しかかえってこなかった。
「おい、後ろの荷台で着替えてくれ。お客さんからいわれているんだ。服は荷台に置いてあるだろ。」
後部座席に服が一式、置いてあった。渋滞中のちょっとした停車の隙に後ろへ移動した。服を広げるとメイド服だった。白のストッキングにガーターベルト、黒のパンプス、小さなエプロンまであった。
「早く着替えろ、着いちまうぞ。」
あわてて着替えた。
「あの、今着ている服は・・・」
「置いとけ、どうせ帰りも乗るんだ。オカマのくせに小うるさいやつだ。」
ショックだった。「オカマ」と言われた。確かにルームミラーに映る顔は男丸出しだ。髪は少し伸びてきたので前髪を揃えたがたが、女性の髪形とはどうみてもいえなかった。おまけに下手くそな化粧。確かにオカマ丸出しだ。髭が生えていないだけましというところか。
でも、あの世界では、女扱いだった。リーダーも、管理人のおばさんも、長身の娘も、消えてしまったOLたちも、私を女として扱ってくれた。この元の世界らしきところに戻ってきたとたん女ではなくオカマになってしまった。
「ほら、降りろ。」
車は繁華街の道端に止まっていた。
「降りてどうすればいいんですか。」
「知らん。」
「でも、私は何も聞かされていなくて、どうしたらいいか・・・」
「オカマの泣き言など聞きたくない、早く降りろ。」
外には、多少髪の薄くなった中年男が立っていた。この車が停まったことに気付くと車の中を覗きこんだ。私の姿に気が付くと外から扉を開けた。
「なんだえらく不細工だな。まあしょうがない。」
「・・・」
「早くしろよ。」
車から降りると、髪の薄い男性が扉を閉め、あっという間に車は走り去った。
****************客との会話 削除
「やめてください。」
男声で叫ぶと逃げ出した。
走りにくいヒールのあるパンプスは脱ぎ捨て、裸足で走った。
「このやろう、金返せ。」
怒鳴り声を背に繁華街の歩道を走り、曲がり角を折れ安居酒屋の並ぶ飲食店街を通行人を何人も突き飛ばしながら走った。
背後には罵声が飛び交っていた。しかし、メイド服のオカマに喧嘩をふっかけようとする者もなく古びたアパートが密集する路地に逃げ込んだ。さすがに、あの薄毛の男は追いかけてはこなかった。
古びた家の軒先のアロエが植わっている大きなプランターに腰掛け一息ついた。女らしく膝を揃えてすわろうなどという余裕はなかった。足を開きガーターベルトもショーツも丸出しのまま上がった息を整えていた。時折通りかかる人は不潔なものでも見るように、私をよけて足早に立ち去っていった。
ここはいったいどこだ。見覚えがあるような気もする。しかし、前に住んでいた町、夜歩き回った繁華街、イメージは頭の中にありありと浮かぶものの、地名、店名、どこの駅のそばで、なんというビル、いっさい「固有名詞」は浮かんでこなかった。どうやら、日も暮れてきたようだ。どこに行けばいいのか、何をしたらいいのか、途方にくれた。
私はあの世界でこれから女として大人しく生きていくべきなのだろうか。確かにそのほうが楽だ。誰もがみんな私を女と見てくれる。でも、誰もがといったって、本当に人なのだろうか。長身の彼女と話し合った結果は、あの人たちは私たちの背景でしかないのだ。人と人との関係を結ぼうとしても、どうにもならないのだ。そもそも、触れさせてもくれないのだ。長身の彼女とリーダーの他には。
座り込んでいてもどうにもならなかった。
行くべきところは、あの世界に一旦戻るしかなかった。この世界では自分の家も職場もどこにあるのか、記憶が消滅してしまった現状では、あの世界が自分の戻る場所だった。男顔に男声、それでメイド服を着て下手な化粧、おまけに体の肝心なところに男のシンボルはもうない。そんな不完全な状態で落ち着いて暮らせるのはあの世界しかなかった。
どうしたら戻れるのだろうか。
ひとつは、あのワンボックスカーから降りた場所に戻ること。運転手は「どうせ帰りも乗るんだ」と言っていた。待っていれば、つまりあの髪の薄い男とホテルで過ごすだろう時間が経過したと思われる時刻になれば、ワンボックスカーが迎えにきてくれるのではないかということだ。そうすれば、あの男に抱かれてしこたま突っ込まれてきたふりをして乗って帰ればいいのだ。
でも、あの男がまだいるのではないか、また会えば怒鳴られホテルに連れ込まれ、何をされるかわからない。もしいなくても、は私とあの男とのやりとりを聞いていた人たちがいるのではないか。私を見れば、客と大騒動をしていたオカマの売春婦だと指さすだろう。耐えられない。オカマかもしれないが、今はLGBTの権利だって、嗜好だって尊重される世界になっているはずだ。しかし、売春婦、要するに男娼か、自分のこの世界の立場を考えれば早く消え去りたかった。
もうひとつの方法は、闇雲に歩き出すことだった。初めてあの世界に足を踏み入れたとき、職場からの帰りひたすら歩き続けた。次に一旦戻ったとき。行きも帰りもひたすら歩き続けた。方向などどうでもいい。いつの間にかあの深い森に入り体力と気力の限界まで歩き続け、限界に到達したところで行きついたのだ。それを繰り返せばいいのだ。あの車を降りた街角に戻る気にはならなかった。歩き続けることにした。
問題は靴だ。これまで森の中では靴を履いていた。あの獣道を裸足で歩けるのだろうか。既に裸足で逃げてきたために、ストッキングはズタズタ、足もいたるところから血が出ている。
ふと、傍らの古い家を見ると外に居住者の靴が干してある。男物の革靴とスニーカー、女物のブーツにパンプス、サンダルに長靴、思わず手に取って走りだした。手に取った靴を見た。無意識でパンプスを選んだようだ。5センチほどの高さのピンヒールだ。スニーカーにすればよかったと思ったが、いまさら取り替えにいくわけにはいかない。先を急ぐしかなかった。パンプスを履くと足にぴったりと収まった。ピンヒールでは走るわけにはいかない。でもひたすら歩けばいいのだ。
あの男と会った場所はここよりずっと賑やかな場所だった。そこを避けるため、ひたすら人も少なく、店も少なく、家も少ない方角にひたすら歩いた。しかし、いくら歩いても家並みが途絶えるどころか、いきなり繁華街になり、商店街になり、アーケード街になった。人波は途切れず、多くの男や女が化け物でも見るような目つきで私を振り返った。
何時間たっても変わらなかった。不思議なことにいつまでたっても夕暮れの少し暗くなりかけた状況は変わらなかった。
「おい、何やってんだよ。」
いきなり男の声が聞こえた。
「ちょんの間だっていうから20分ほどして戻ってみればよ、あのオッサンがまだ歩道にいて大騒ぎよ。まるで俺のせいだっていうようにさ。」
「ごめんなさい、乗せてってください。」
「悪いな、あんたがいないから別の仕事いれちゃってさ、すぐ行かなきゃならんのさ。ほら、置きっぱなしの服は返すよ。」
「そんな・・・」
「そのメイド服は、誰のものか知らん、持っていっていいんじゃないか。じゃあな。」
オンボロワゴン車は行ってしまった。
見渡すとあの髪の薄い男と言い合いをした街角にそっくりだ。ビラ配りの若い男は私と目を合わすと舌打ちをして目をそらせた。雑貨屋の女店員も私と目を合わすとあわてて店の奥に引っ込んだ。コンビニをふと見ると中で雑誌を立ち読みしている髪の薄い男がいた。あわてて、テナントビルに飛び込み女子トイレの個室に駆け込んだ。まだ、見られていないはずだ。とりあえず、目立つメイド服からスーツに着替えることにした。スカートもストッキングも私の吐瀉物で大きな染みができていた。それでもメイド服よりは染みだらけのスーツのほうがまだ目立たないだろう。
脱いだメイド服はトイレのごみ箱に押し込み、そっとビルを出た。まだあの髪の薄い男はコンビニで立ち読みをしている。逃げないと。




