第7話 閉じ込められた黒い影
走りに走って、私と蓮は遊園地の外れにある観覧車のところまで逃げてきた。肩で息を切らしながら振り向くが、女が追ってくる様子はない。胸を撫で下ろしながら傍らの蓮に目を向ける。呼吸をすることすらままならない私とは対照的に、蓮はとても落ち着いていた。
—私も、もう年かな…。
そんなことを思いながら苦笑を浮かべていると、蓮が口を開いた。
「ねえ、まだ思い出せないの?」
私は首を傾げた。蓮はじっとこちらを見つめてくる。私はいたたまれなくなり、蓮から目線をそらそうと空を見上げた。ぽつり、ぽつりと頬に滴が落ちる。先ほどからの小雨が、俄かに強まったようだった。
「あ…雨が強くなってきたようだね」
そう言って空から地上に目を戻したが、その時には蓮の姿はもうどこにもなかった。
「…忙しない子だなあ」
私が驚くような場面であっても落ち着き払っているかと思えば、少し目を離すとすぐに姿をくらませる。一ノ瀬蓮は、今まで出会ったことがないような、不思議な感じを漂わせた少年だった。
「まだ思い出せないの…か」
これは、どういうことなのだろうか。私は確かに10年前より以前の記憶がない。蓮が、私の記憶に関わっているとでもいうのだろうか。
「…それは、ないと思うんだけどなあ」
蓮は、どうみても10歳前後の子供だ。私と蓮が10年前より以前に関わりがあったとして、たとえ蓮が生まれていたとしても物心がつくより前のことだろうと思われた。だが、私の中にも確かに感じるものがあるのだ。私は、蓮という少年にどこか懐かしさを感じている。
いよいよ雨脚が強まってきた。私はショルダーバッグの中から折り畳み傘を取り出して差す。ばたばたばたと、ビニールを打つ音が耳に響いた。私は傘をわずかにずらして観覧車を見上げる。
「なかなか大きいなあ」
そうつぶやいた時、ふと一番上の部屋が揺れているように見えた。
—風だろうか…。
そうも思ったのだが、他の部屋は揺れていない。一番上の部屋だけが小刻みに揺れ続けているのだ。また、声も聞こえてきた。
『出して』…と。
私は、背筋が寒くなるのを感じた。それは、きっと雨のせいなどではないだろう。
観覧車にまつわる七不思議もあったはずだ。近隣住民が聞いたという、「出して」という声…。
「閉じ込められた黒い影…」
インターネットではそう呼ばれて噂されていた。声に出してみると、ますます寒さが増したように思う。
雲のせいだろうか、日も陰り、辺りはほんのりと薄暗くなっていた。もうじき閉園の時間なのかもしれない。
薄暗さと肌寒さ、出してと聞こえ続ける不気味さにその場を離れようとした時、がこん…という鉄の動く音が聞こえてきた。見ると、観覧車がゆっくりと回りはじめている。
私は、とっさに操作盤のあるだろう部屋に目を向けた。そこに人影はない。その部屋は、今は珍しくなったが電話ボックスのような形をしている。扉に鍵がかけられていたものの、窓越しに中の様子がうかがえた。そこで、私は息をのむ。
「これは…どういうことなんだ」
操作盤は真っ暗だった。盤上の画面にはなにも映し出されていない。その上、もう何年も人の手が触れていないのではないかと思えるほど、塵や埃で真っ白に汚れていた。ところどころに錆も浮いている。
その間も、がこんがこんと、観覧車は回り続けている。それに伴い、声もしだいに大きく、はっきりと聞こえるようになってきた。
『……て…』
『…して…』
『…だして…』
『出して…!』
声が、どんどん近づいてくる。がこんがこんと音を立てながら、それは着実にこちらへと向かってきていた。そして、ついに、一番上で揺れていた部屋が一番下に降りてきた。そこで、がっこんとひとつ大きな音を立て、観覧車は停止した。
しばらくは遠目に様子をうかがっていたが、何も起こらないので徐々に近づいてみる。そうして、部屋の目の前で足を止めた。
おそるおそる部屋の中をのぞいてみる。当然ではあるが、誰もいなかった。別の角度から見てみる。私は、はっとして飛び退いた。
黒い影だ…。得体の知れない黒い影が、部屋の床に張りつくようにして微かに蠢いている。その影が、こちらを見た気がした。大きな目が何かを求めるように見開かれ、その影はひと際大きな声を上げた。
『出して! 出して! 出して! 出して! 出してっ!!』
また、けたたましく扉も叩かれた。
どんどんどんどんどんと、それは部屋が大きく揺れるほどの激しさであった。
不気味さのあまりに身を引いて様子を見つめていると、またもがこんっという音がして、観覧車が再び動きはじめた。叫び続ける声は相変わらずであったが、しだいにそれも遠ざかっていく。
黒い影の乗る部屋が頂上に戻ると、観覧車は再び静寂を取り戻した。
周囲には人はなく、そこにあるのは雨の音と、雨音に混じって聞こえてくる「出して…」という微かな声があるぐらいであった。