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角から帰る線

【人物のおさらい】

・カイ:自由港カレドの運び屋。喉の不調を抱え、自艇の復帰を目指している。

・セナ:父の星図を調べる研究者。右腕と右足の負傷を療養中。

・ミレイ:港の機関士。カイの艇を修理している。

 次の朝、セナは父の図を窓辺へ持ってこなかった。

 窓際に置いたのは昨日の紙の写しと、まだ何も描いていない、厚い紙を二枚。風が強い。戸が開くたび、机の脚のあたりで、敷物の端が浮いていた。

 カイは窓を細く開け、すぐに閉じた。風に触れた喉が、昨日と同じところで狭くなる。

「港の方、旗が張ってる」

「見えた?」

「音で。あれ、たるんでると鳴らない」

 そう言ったあと咳が来た。机まで戻るには短い距離だったが、咳が止まるまでは歩かず、窓枠へ指を置いた。セナは足台から片足を動かしかけ、彼が自分で戻ってくるのを待った。

 カイが椅子へ座ると、セナは紙を一枚だけ彼の方へ滑らせた。

「まず、昨日どこで止まったか。紙が飛ぶ前に二人で描いておきたい」

 昨日、青い一筋が見えた白い杭と、今日、入口だけ確かめたい近い岸は、同じ場所ではない。二つを紙の上で近づけすぎると、そこまで行けた気になってしまう。

 カイは鉛筆を持ち、岸へ向かう線を半分だけ引いた。先に溝がある。椅子で通れないと分かった所だ。

 セナが左手で、その線の起点へ小さな丸を描く。カイが置きたかった丸より、指ひとつ手前だった。

「こっちから?」

「うん。帰る時に見える方に先に立ちたい。昨日は、そこにいなかった」

 カイは図に書き込まず、筆記板を引いた。

『監視の人に、入口までの道と帰る道、二つとも聞く』

「通れない方も聞こう。帰りにそっちへ出たくない」

 セナが言い足した。父の図に見えたものを先に話したら、相手も似たものを探してしまうかもしれない。今日は、そちらの紙は部屋に置いていく。

 窓の外で布が一度鳴った。セナは、厚い紙の角を折らずに、鞄の中へ入れた。


     *


 同行の補助者が、施療所の玄関で椅子を止めた。

 朝の石段はまだ湿っている。セナが左の指で足台を示し、自分の足を置き直すまで、誰も椅子を傾けなかった。

 カイは、進む方へ先に行きかけた。昨日、歩けた距離なら、大丈夫だと思ったからだ。だが昨日の空と、足元を走る今日の白い風は違う。入口の石を一度、掌で触れるほど近くから見た。表の水は、乾いているように見える色へ変わったところだった。

「こっち、黒い所だけよける」

 彼の声を聞き、補助者は押し手に力を掛けず、セナを見る。

「じゃあ、ここから先に、少しずつ」

 押される前に、セナは風が入ってくる側へ布を寄せた。右腕はそれを持たない。カイは椅子の横から離れ、前へ一人分だけ出た。

 港に近づくと、風に混じって、魚を洗った水の匂いがした。干した網の端から、ちぎれた細い葉が石へ落ち、海と逆の方へ走る。

 監視の持ち場の前では、昨日はなかった縄が、柱の途中まで伸びていた。人を入れないと決めた線ではなく、すぐ掛けられるよう片端を寄せた形だ。

 その横から、港の監視担当が顔を出した。腰の札が風で上着を叩く。

「船のことなら、今日は内の水面も先に見ろ。風が橋の下で返る」

 カイは声で返そうとして、板を上げた。

『今日は陸の入口。近い岸の方だ』

 担当は札の音を片手で止め、文字を読んでから、セナの椅子を見た。

「どこまで行く。石の道と、水際の板は違う」

「板の上に出ずに、入口が見える所まで。帰りに椅子を回せる場所も知りたい」

 セナが答えると、担当は縄を取らずに、持ち場の壁に掛けた紙を見せた。

「昼前はここから戻る。荷を上げたあと、海側へ人を出さない。今は裏から来られるが、途中の敷石を換えた。椅子なら、幅より一枚の傾きだ」

 セナは左手で紙を取ろうとし、風で上がった端を目で追った。担当が、取っていい方を下から差し出す。紙の印と、実際に立っている石の向きが、同じになるように、セナは鞄の上で半分だけ回した。

「赤い所が、敷石?」

「赤は荷の置き場。敷石は印がない。見るなら、俺がそこまで行く」

 言い終えると、担当は自分の持ち場を一度振り返り、腰の札を壁に掛けて出た。どこへ行ったかが、戻ってきた人にも分かるようだった。


     *


 持ち場の先へ行くと、港の音が少し遅れて届くようになった。

 石の壁の外では波の音が強い。人の足が通る中の道では、声がよく返った。昨日カイが低い椅子から見た青は、水の色だと思えばそこで終わる。音まで変わる場所があると知ると、まず、どこに立った時に聞いたかが欲しくなった。

 道の途中に、敷き直した石があった。

 色は隣と変わらない。正面から近づくと、平たい継ぎ目に見えた。監視担当が膝をついて、石の端に指を差し込まず、指の先の影だけ見せた。

「こっちへ行く足には、高くない。戻る足で、横へ落ちる」

 カイも同じ所へ屈む。歩く足なら、先に踵を下ろせる。椅子の車輪は、片方が先に落ちたら、横へ寄るはずだ。昨日は、車輪が止まった所を見て、溝のことを紙へ入れた。今日は、止まる前に線を引き直せる。

 彼は、板をセナへ見せた。

『ここは、今日は越えない』

 セナは石を見ていた。すぐには頷かなかった。

「向こうに、人が座れるところ、見える?」

 カイが見たのは、低い壁の上端と、壁の先にある張り出しだった。人が座れる広さかどうかまでは分からない。

「見えない」

「じゃあ、私の椅子から見えないかどうかも、まだ同じだね」

 本人に見えるかどうか、代わりに目を下ろして確かめたかった。だが今ほしい答えは、目の高さだけでは出せない。段の手前でどちらを向くかを、セナが先に決められる。

 カイは板の字を消さず、横に線を一つ足した。そこまでなら、自分で歩いて立てた。

 監視担当が線を読み、足を戻した。

「戻るなら、いまの角の内側だ。道の真ん中で車輪を回すと、空の荷台も通れない」

 セナは後ろへ声を掛けた。

「いったん、角まで戻ってください。回せる方を見ます」

 椅子が下がる音は、歩く靴の音と違い、継ぎ目のたびに小さく鳴った。角の手前まで行くと、補助者は手を止めた。押し手が壁に当たらず、セナの足台も道へ出ない位置で、実際に向きを変えてみる。そこから戻る道が、セナにも見えた。

「ここなら見える。入口じゃなくて、帰る道が」

 セナは言ったあとで、もう一度、今来た方へ目を向けた。

「先に、それを書こう」

 カイは板を持ったまま、頷いた。今日の紙の丸を、一度消さなくても、次に見たい場所は変えられる。


     *


 監視担当は、カイの板を読んで、角の奥を指した。

「あそこからだと、入口の柵の上だけ見える。岸へは下りない。自分で見るなら、荷を置く方へ一歩も入るな」

 セナは椅子で待つと言った。カイは、声に出す代わりに板を見せた。

『見えた向きだけ。先へは行かない』

 彼は角の内側を一人で二歩進んだ。敷石を越える必要はない。肩を壁へ寄せても、腕を伸ばしてその向こうに触れるほどは行かない。

 確かに、低い柵の上が見えた。柱が一本、波の光を受けている。柵の先に窓のような形があると思った時、風が向こうの布を上げた。布が戻ると、穴に見えた場所まで白くなった。

 窓、と書きかけた手を止める。

 柵の手前に布が吊ってある。今日のこの角度では、その先は形まで見えない。

 聞こえた音にも、窓の向こうから来たと決まるものはない。カイは後ろへ戻り、板の上端を膝に当てて書いた。

『柵の上だけ。布が動くと、穴みたいに見える。向こうは見えない』

 セナは板を受け取り、最後の一行を指した。

「私も、今日は見えない。椅子の位置はあっち、カイが立ったのはこっち。二人で同じ見えないを書かなくてもいい」

 担当は腰のあたりに手をやり、札を持ち場へ置いたことを思い出したらしく、その手を下ろした。

「風が強い日は、布を外さない。目印を見たいなら、次の静かな時に、ここから見ろ」

「潮が低い日なら、板の方へ出られる?」

 セナが訊いた。

「潮が低くても、板が濡れてりゃ出さない。風と板は、来てから見る」

「じゃ、潮だけで決めない」

 そう言い、セナは小さく笑った。遠くの答えをもう一つ先延ばしされたのではない。来てから自分で確かめられることが、三つに増えたのだった。

 角から帰ろうとすると、沖からひときわ大きい波の音が来た。カイは、もう一度だけ、柵の方を見た。壁の間から見えるはずの水面が、色のない細い線になっている。

「いまの、さっきより遠い」

 声にすると、監視担当は柵ではなく、足元の石を見た。

「聞こえた音の場所は、目で決めるな。あの壁は裏にも水が入る」

 カイは石の方へ一歩も足を出さず、その場で次の音を待った。先に、濡れた木の匂いがした。続いた音は、さっきより近いのに低い。

 何が波を受けたか、それだけでは分からない。昔、積んだ箱の裏から海水が漏れた時、正面の箱から先に拭いたことがあった。水は、音のした側から来ていたとは限らなかった。

 セナは紙を膝に立て、角に、小さい弧を二つ書いた。

「音がした時、私の方は柵が見えない。見えないところにも、音は来た」

 カイは頷いた。二つの音を同じ波のこととして、一本で結ばなくて済んだ。

 セナの紙には、今日来られた場所の印のすぐ脇に、音が二度来たと書かれた。父が聞いた音がこれだったか、という問いには、まだ紙を一枚も使わなかった。


 カイは担当へ礼を言おうとして、喉の奥で音が止まった。板を裏へ返し、一行書く。担当は読んでから手を一度上げ、もう持ち場の方へ向き直っていた。


     *


 帰り道、白い杭の見えた方へも足を伸ばしたくなった。

 今日は違う岸の入口を確かめるつもりで来て、そこへ行けるかと聞いた。行けると決まらなかったのに、風の中で港へ戻るだけでは、何もしなかったような気がする。

 カイが立ち止まると、椅子の方も止まった。

「休む?」

 セナが訊く。先に出ていた足を後ろへ戻してから、カイは首を振った。

「昨日の青、見えるかと思った」

「私も、さっき思った。今日はもう、いい」

 セナは膝に紙を置いた。風があるので、広げる方ではなく閉じたまま持つ。

「帰ったあと、また来たいって言いたいから。今のうちに全部見ようとすると、次の私は来ないかも」

 言ってから、少し口を引いた。昨日の勝負の話を持ち出したことに、照れているように見えた。

 カイは鞄から畳んだ粗い写しを出した。帰りの道の欄には、もう一本、短い線が入る。その上に、今日の椅子が向きを変えた所の印を置ける。風が下を抜けるので、片手で紙の全体は押さえられない。外で書くのはそこでやめた。

 板の方へ一行だけ書き、セナへ見せる。

『俺は、また来たい』

 セナは読んですぐに顔を上げず、紙を閉じたまま膝から下ろした。

「帰ってから言うんじゃなかった?」

「先に言いたかった」

 カイの声は小さかった。それでも、言い直すために喉を使わずに済んだ。

 セナは足台の方へ目をやり、補助者へ進む合図をした。

「じゃ、私は帰ってから」

 風の向きが変わった。膝の布の端が一度めくれ、セナは左手で自分から押さえた。


     *


 施療所では、朝出た時より早く、敷物の端が床へ戻った。

 父の原図を開く前に、セナは、白い紙を机へ広げた。角の印から戻る道へ一筆。敷石は、通れないと決めた場所として、日と風を添える。カイが見た柵には、足を置いた位置からだけ、小さな線を引いた。

「今日の方が、昨日より線が短い」

 彼が言うと、セナは鉛筆を置き、紙の向こうにある椅子の押し手を見た。

「短い線のところ、帰って来られた」

 そして少し息をついてから、最初の紙の丸の脇へ書いた。

 また来る。板を渡らず、角から。

 そう書いた字は、まだ、父の図のどの窓とも繋がっていない。艇で港の外へ出る許可もなく、父のことも、星のことも、昨日聞いた以上に決まったわけではない。

 ただ、次の観察に来たい人の言葉は、父の紙を開かなくても読める。

 カイは、昨日畳んだ粗い写しを重しに置いた。折り目の向こうに残った矢印は、もう紙を開かなくてもどちらを向くか思い出せる。

 帰りに艇のことを見にいこうかと、一度考えた。喉に触れた風が、まだそこに残っている気がして、やめた。

 次に来た時には、今日あの角で柵を見た人として、最初の線の脇に立ちたい。

 窓の外で、旗が一度だけ鳴った。今度は、窓を開けずに聞けた。

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