戻る港を、自分の手で
【人物のおさらい】
・カイ:自由港カレドの運び屋。喉を痛め、自艇の修理を待っている。
・セナ:父の星図を調べる研究者。右腕と右足の負傷を療養中。
・ミレイ:港の機関士。カイの艇を修理している。
翌朝、港の風は、修理場の中より冷たかった。
カイは艇の縁へ片手を置き、顔を上げた。係留の外へ出れば、もう壁に囲まれた試験ではない。
ミレイが、彼の手から少し離れた所を叩く。
「そこは、まだ繋いでる。空を見たら外れる綱じゃないよ」
彼は口元を緩め、足元へ視線を戻した。
赤銅色の髪を後ろへ払った機関士は、昨日直した道具箱の留めを確かめていた。油の染みた袖と、乾いた布。彼女が今日持ってきた物は、艇を遠い航路へ送り出す支度ではない。
港内を短く動かし、戻るまでを見る支度だった。
カイは札を並べた。
止める。下ろす。上げる。
昨日、係留の中で使った三枚だ。
ミレイは見比べ、机ではなく、自分の立つ位置から指を向けた。
「私がそっちを向いてない時は、どうする?」
カイは、札を持ち上げかけたまま止まった。
機関士は、ずっと彼の顔を見るために乗るわけではない。後ろの計器を見ている時、札を上げる手は、視界の外へ行く。
彼は札を下ろし、紙へ書いた。
『先に、こちらを向かせる』
「そう。それ、声を張らずにできる方で」
ミレイが、乾いた木の縁を指で二度叩いた。
短く、二つ。機関が止まっている今は、よく聞こえた。
*
動かす前に、二人はその合図を試した。
ミレイが後ろへ向く。カイが、手の届く木の縁を二度叩く。
彼女は振り向き、彼の出した札を見て頷いた。
次に、彼女がわざと少し離れ、覆いの向こうへ屈む。
同じ音で呼ぶと、返事が一つ遅れた。
「ここだと、弱い。私が中を覗いてる時に、あんたの方で次へ進まないで」
カイは頷く。
札へ、戻るまで待つ、と書いて、彼女へ見せた。
「うん。こっちも、離れる時は先に言う。あんたが気づくまで、勝手に消える方にしない」
喉が戻るまで待て、と言われているのではない。
声が使えないなら相手が全部察してくれる、というやり方を、二人とも止めようとしていた。
機関を起こした状態でも、同じ所から二度叩いた。
音は、さっきより小さく聞こえる。
ミレイは首を振り、自分の持場を少し手前へ変えた。
「最初の往復は、ここまで。後ろの確認で離れたくなったら、一度戻ってからにする」
カイは窓の先へ目をやりかけ、また戻した。
遠くまで行くには足りない相談だ。だが、遠くへ行く時にも必要な相談を、今、手の届く所から始めている。
彼は紙へ、短く、頼む、と書いた。
「それは、こっちの台詞でもある」
ミレイは笑い、彼の止める札を、左手のいちばん近くへ戻した。
*
港の監視担当は、桟橋の端で待っていた。
カイが予定の控えを出すと、担当は艇と、通路の先を見た。
「修理後の港内試運転、一往復。そこの浮標の内側まで。外の航路へ入らない方だな」
カイは頷いた。
担当の指す浮標は、係留の向こうで、ゆっくり向きを変えている。昨日の観測に出てきた白い線とは、役目も、距離も違う。
今日は、その浮標の位置を、見落とさないために見る。
「戻る場所は同じ。入って来る荷艇を先に通す。止める必要があったら、桟橋から腕を上げる」
担当は実際に腕を上げ、二人へ見せた。
ミレイが、カイの札を指した。
「こちらは、止める合図を、私が受けて動く。彼は喉を休ませてる。桟橋へ叫んで返事する方にはしない」
「分かった。こちらを見る人を、一人、残してくれ」
カイは自分を指し、頷いた。
ミレイが紙へ向かう間、彼は担当の上げた腕と、自分の艇から見える位置を確かめた。
分かったと答えるための声を使わずに済むよう、先に、分かる形を揃えておく。
予定が確認されると、担当は一度、綱を見た。
「今日は、荷を積んだ試験ではないな」
ミレイが答えた。
「修理道具と普段の綱袋だけ。満載の記録にはしない」
「なら、それで。終わったら、帰着をここへ」
カイは短く礼を言った。
掠れた声でも、隣の相手へ届く一言なら出せた。その一言を、遠くの桟橋へ何度も投げる支度には変えない。
*
係留の綱が外れると、足裏の震えの意味が変わった。
昨日までは、浮いても、決められた短い範囲へ繋がれていた。
今日は、操縦する自分の手が、帰る場所へ艇を戻さなければならない。
カイは握りを持ち、ミレイを見る。
彼女が頷いた。
上げる。
札を出すと、床の下から低い音が広がった。
窓の下の桟橋が、少し下がる。
カイは上がる高さを追わず、桟橋の端の手摺へ目を残した。昨日、修理場の床から離れた時より、変わる景色が多い。
遠くの空を全部、取り戻した顔には、まだならない。
艇が、前へ動いた。
木の縁に触れている掌へ、空気の冷たさが来た。
修理場の入口が、横へずれていく。
カイの胸から、思わず声が出そうになった。
彼は口を閉じ、代わりに、ミレイの方へ目を向けた。
彼女も、窓の外を見ていた。
「進んだ。こっちも、分かった」
その声だけで、胸の中の出来事が、一人分ではなくなった。
彼は頷き、桟橋の担当へ視線を戻す。
腕は下がっていた。
港の音が、艇の中へ別の順で入ってくる。
下の水を叩く音。隣の荷場で木を置く音。風を受けて擦れる縄。
その中に、機関の細い音がある。
ミレイは片耳をそちらへ傾け、紙へ短い印を置いた。
カイも、握りの端へ返る小さな揺れを覚えようとした。
以前と同じかを急いで言い当てるのではなく、前へ進む時と、止まる時で何が変わるかを見る。
修理場で聞いた音へ、外の風が重なる。その違いを、壊れた徴候へ全部まとめないようにした。
*
浮標の手前で、桟橋の担当が腕を上げた。
カイはすぐに止める札を持ち、木の縁を二度叩いた。
ミレイがこちらを向く。
札を見る。頷く。
艇の進みが、ゆっくり弱まった。
その横を、一隻の荷艇が通って行く。積まれた箱の列は、カイの方を待つために崩れることも、急に向きを変えることもなかった。
自分たちが試す場所と、誰かが今日の仕事を運ぶ道が、同じ港にあった。
「いま、少し遅れた?」
ミレイが訊いた。
カイは担当の腕を指し、自分の札を指した。
紙へ書く。
『腕を見た。叩いた。札を上げた』
彼女はその順を読み、頷いた。
「私が向いた時、もう出てた。でも、叩く手と、札の手が同じ側で、少し忙しそうだった」
彼は自分の左手を見た。
札の山へ戻す位置が、木を叩く所と重なっている。
昨日、机で確かめた時にはなかった忙しさが、今、桟橋の腕を見ながら出た。
ミレイは、前へ進めようとは言わなかった。
「戻ってから、そこ、直す。今日は見つけられた分を持って帰ろう」
カイは頷いた。
浮標の向こうへ広がる空が、視界へ入る。
ほんの少し進めば、昨日まで部屋から眺めていた港の外が近づく。
彼は、その方へ握りを押さなかった。
荷艇が通り終わり、担当の腕が下がる。
ミレイが、戻る方、と手で示した。
カイはゆっくり艇を向けた。
*
帰りの桟橋は、出た時と違う顔に見えた。
戻る場所を知っているはずなのに、外から近づくと、綱を掛ける所と、降りる足場の高さが、別々に目へ入る。
彼は少し手前で止まり、担当の動きを待った。
ミレイも、先に艇を降りようとはしない。
「ここで、下ろす。あんた、手摺を見て」
彼女の声を受け、カイは下ろす札を出した。
艇が、ゆっくり足場へ寄る。
床が重さを受けた時、朝の浮上とは逆の感触が足裏へ来た。
彼はすぐに握りを放さず、機関の音が落ち着くまで、ミレイの手を見る。
止まった。
綱が戻る。
そこで初めて、彼は指を開いた。
桟橋へ降りた時、喉が乾いていた。
叫んで使った乾きではなく、息を詰め、外の風を吸った乾きだった。
カイは水を一口飲み、すぐ言葉を続けなかった。
ミレイが彼の顔を見た。
「帰った」
「ああ」
短い声だけが出る。
その短さでも、今日は足りた。
艇を浮かせ、前へ動かし、他の荷艇を待ち、同じ場所へ戻した。
世界のどこかへ届いた話ではない。自分の手で帰って来た話だった。
*
帰着の控えへ、港の監視担当が印を付けた。
「一往復、浮標の内側。荷艇一隻を待った。外の航路へは出ていない」
カイが頷くと、担当は続けた。
「次も、来る前に枠を聞いてくれ。今日と同じに空いてるとは限らん」
「分かった」
彼は今度も短く返し、紙を受け取った。
短い試運転ができたから、次の本航海まで許可が続いたのではない。
ミレイも、今日見た所と、まだ試していない所を別に書いていた。
満載の航行。長い時間の運転。外の風。どれも、今日の一往復の印へ混ぜない。
修理場へ戻ったあと、二人は札の置場を変えた。
カイの左手へ全部集めず、止める札だけは、すぐ立てられる位置へ置く。木を叩く所は、その隣に残す。
カイは、札の角を一つ、布で包んだ。湿った手で急いで持つ時に、薄い端だけを掴まなくて済むようにする。
ミレイはその布を見て、首を傾げた。
「札の字、隠さないで。私が読む方へ、結び目を出しても困る」
彼は裏側へ回し直し、立てて見せた。彼女が頷く。
自分の指へ合う形と、相手の目へ合う形は、少し違う。喉の代わりの道具を作れば、それだけで誰にでも通じるわけではなかった。
カイは余った布を短く畳んだ。大きな旗へ変える前に、今日一緒に乗った一人へ、手元の一枚が読めればよい。
試運転の紙には、札の置場の絵を小さく足した。次に機関を動かす時、その絵の通りに必ず通じると信じ込まず、また一度、相手のいる場所から見てもらうためだった。
ミレイが遠くの棚を見る真似をし、カイが二度叩く。
彼女が振り向いた時には、止める札がもう見えていた。
「こっちの方が、手が迷わない」
彼女が言う。
カイは頷き、札を元へ戻して、もう一度確かめた。
今日、外へ行ったから分かった不便を、部屋の中へ持ち帰って直せる。その往復まで含めて、艇を取り戻す仕事だった。
道具をしまうミレイへ、彼は小さな声で礼を言った。
「助かった」
「まだ、全部終わった顔しないで。私、今日の紙、家へ持って帰らない方にしたいから」
彼は笑い、記録を自分の鞄へ入れた。
家庭へ戻る時間と、港へ残る仕事を、旧友の好意で溶かさない。
ミレイは頷き、布で手を拭いた。
*
施療所で、セナは紙を見ていた。
父の原図は机へ残り、その横へ、自分の左手で書いた小さい文字が並ぶ。
カイが帰着の控えを出すと、彼女は顔を上げた。
「今度は、前へ進んだ?」
彼は頷き、指で短い往復を示した。
「港の、中だけ」
「うん。どこで、戻った?」
彼女は距離より先に、帰りの向きを訊いた。
カイは紙へ浮標と桟橋を描き、荷艇を待った場所へ丸を置く。
セナは、その丸を少し長く見ていた。
「私たちの便も、こういう所で待ってたのかもしれないね」
沿岸へ送った控えの返事は、まだ来ていない。
今日の試運転で、その紙まで早く着いたことにはならなかった。
彼は、返事未着、と書いて見せた。セナは頷き、原図を動かさないまま、別の紙へ目を戻す。
艇の中の、紙を置く場所の図だった。
カイは机の端を指し、自分の艇の縁へ似せて、少し線を引いた。
「そこへ、机は付かない?」
セナが尋ねる。
彼は首を横へ振った。
『綱袋。帰る時、ここで使う』
「そっか。私の紙だけ、いい所へ置かない方」
彼女は笑い、左手で図を回した。
右腕も右足も、今日の艇が進んだことに合わせて治ったわけではない。今すぐ乗りに行こうとはせず、机の上で、紙を開く向きを試す。
カイは、その隣へ、自分が座る場所を描いた。
札を見る所。綱を取る所。いつか彼女が地図を開く所。
まだ飛べる航路の線は引けない。けれど、帰って来た艇の中へ、誰かの仕事を迎える場所なら、二人で考えられる。
セナが紙の端を押さえ、彼の線へ小さな四角を添えた。
「ここなら、閉じたまま置ける?」
カイは頷いた。
開く時の広さだけでなく、戻る時にしまえる場所が、その艇へ一つ、増えた。




