まだ飛ばない艇に、帰る形を作る
【前回までの人物】
・カイ:自由港カレドの運び屋。喉を痛め、自艇の修理を待っている。
・セナ:負傷後の療養を続ける星図の研究者。自分たちの観測の写しを、沿岸便の照会へ出した。
・ミレイ:港の機関士。カイの艇の部材合わせを進めている。
修理台の上の艇は、水に浮いている時より小さく見えた。
カイは入口で足を止めた。
艇の腹の下へ支えが入っている。いつもなら水面に隠れる継ぎ目が、朝の乾いた光に晒されていた。運んだ荷の重さも、自分の身体を預けた揺れも、今はそこにない。
「声、大きく戻った?」
奥からミレイが訊いた。
カイが首を振ると、彼女は工具を置かずに顎で椅子を示した。
「じゃあ、今日も短く。見たい所は、指して」
赤銅色の髪を布へまとめ、上着の袖をまくっている。油の黒い線が、腕の途中まで続いていた。
カイは椅子へ腰を下ろし、小さな札を出した。
『俺の艇、痩せた』
ミレイは読み、艇の腹を見上げた。
「外した覆いまで、肉に数えてたんだね」
彼は笑いそうになり、喉を押さえた。
「まだ笑う方も駄目か。面白いこと言わせないで」
彼女は自分で言って、口の端だけを上げた。
沿岸便へ照会を乗せた翌朝だった。
返事は、まだない。
船が先の港へ着いたという知らせさえ、こちらへ戻って来たわけではなかった。昨日離岸した船を、今朝の机の上で往復させることはできない。
セナは施療所で、右足を台へ置いている。右腕も、重い資料を支えられる状態ではない。
カイは彼女の代わりに、今日も全部の場所を回ろうとしなかった。
午前は、自艇の部材合わせへ立ち会う。昼までに施療所へ戻り、午後に必要な紙は一つずつ頼む。
紙へ書くと、港の一日は、声で勢いよく言うより長く見えた。
*
ミレイが見せたのは、外した部材と、新しく合わせる部材の二つだった。
光沢のある新しい方を、カイは先に見た。使える物が増えたようで、胸が弾む。
彼女は古い方を台へ置いた。
「喜ぶ方は、あとでもう一回。まず、ここ」
端に細い傷がある。
カイは顔を寄せたが、手は伸ばさなかった。黒くなった所を拭けば、ただの汚れに見えてしまいそうだった。
「擦れた方向は、こっち。片側だけが、少し余計に当たってる」
ミレイの指は、傷を直接なぞらず、横の無傷の面を示す。
「新しいのを同じ所へ押し込むだけなら、また、こっちが減る。だから、昨日、位置を合わせるって言った」
カイは頷いた。
壊れた物を新しい物へ換えれば、艇が元に戻ると思いたかった。だが艇の中の他の部分は、彼が海へ出ていた間も、同じ揺れを受けてきた。
『土台も、見る』
彼が書くと、彼女は頷いた。
「そう。見て直す場所と、まだ測ってる場所を分ける。今日の約束は、この合わせができるかまで」
カイは札の下へ、飛べるまで、とは足さなかった。
艇の横へ置いた紙に、外した順が描いてあった。
絵があるからといって、カイがすぐ手を出せる作業ではない。彼が触ってよいのは、ミレイが指定した覆いの外側だけだった。
彼女は部材を仮に置き、どちらの端が先に当たるかを見た。
薄い紙片を差し、抜く。
最初の一枚は、途中で止まった。
「やっぱり。ここを押して合わせると、向こうへ逃げる」
ミレイは力を増やさず、一度、部材を外した。
カイは腰を浮かせかけ、座り直した。
手伝える荷なら、持てる。綱なら、取れる。だが、ここで余計な手を増やせば、彼女がどこへ力を掛けたか分からなくなる。
彼は足元の空箱を、通路の外へ移した。
「そっちは、ありがと」
彼女の声が来た。
何もしないまま待った顔になる前に、自分の目でできる仕事が一つあった。
ミレイは下の当たりを直し、もう一度部材を置いた。
カイは、さっきと同じ紙片を探した。彼女が新しい一枚を取り出す。
「さっきの、端が折れた。同じ幅でも、同じ厚みのままじゃない」
彼は頷いた。
白い線と窓の傷を比べていたセナの声を思い出した。見比べる相手そのものが変わっていたら、違いの名前も変わる。
艇の仕事も、机の仕事も、それぞれ違う具体物で同じ厄介さを持っている。
今度の紙は、端まで通った。
ミレイは反対側も確かめ、留める前にカイを呼んだ。
「今、ここから見て。左右、どっちが浮いて見える?」
彼は立ち、指された高さへ顔を置いた。
影が細く続いている。片方が大きく開いているようには見えない。
「同じ、くらい」
短く言うと、喉へ痛みが来た。
「分かった。あんたが見た分はそれ。ここからの合わせは、私が測った方を記録する」
ミレイは彼の返事を、精密な寸法の代わりにはしなかった。
それでも、自分が乗る艇のどこを見たかは、カイの中へ一つ増えた。
*
昼前、仮合わせの部材へ、位置の印が付いた。
ミレイは道具を置き、手を開いた。指の付け根を一度ずつ曲げ、布で油を拭う。
「ここは、合う所まで来た」
カイは札を持ち上げかけた。
もう、戻ったか。
その問いを、書く前にやめた。
艇の下には支えがある。覆いは外れ、別の箇所の点検は残っている。今できたことを、できていないことへ早く広げれば、喜ぶ相手の仕事まで雑になる。
彼は書き直した。
『そこ、合った。嬉しい』
ミレイは少し目を丸くし、すぐに笑った。
「そう言ってくれた方が、こっちも嬉しい。今日全部終わるかって聞かれるより」
彼は親指を立てた。
艇がまた水へ出る時、今のこの一箇所が、外からは見えなくなる。その見えない所に、誰が何を合わせたかを覚えておきたいと思った。
「あと、あんたの帳面。今日、別の部品を買ったことにはしないで」
ミレイが付け加える。
「前に相談した修理の中の、合わせ。別の物が要るって決まったら、先に話すから」
カイは頷いた。
新しく金を払ったわけでも、修理代が免除されたわけでもない。新しい見積りの数字を、ここで作ることはしなかった。
彼が椅子を戻すと、ミレイは次の道具を取りに行った。
「午後は、ここへ張り付かないで。見てるだけでも、あんたの喉は休まらない顔するから」
カイは口を開かず、札へ小さく書いた。
『顔は、休めにくい』
「知ってる」
返事が早くて、彼はまた喉を押さえることになった。
*
北倉へ寄ったのは、施療所へ戻る道の途中だった。
監視担当は窓の外を見ていた。煤けた灰の外套へ、細い光が一本入っている。
カイは声を掛けず、視界へ入る所で一度、手を上げた。
相手が顔を向けてから、用意した紙を出す。
昨日、低い旗と上の雲の向きが違って見えた。今日も見えるなら、同じ場所と時刻を残したい。
男は紙を読み、窓の外へ目を戻した。
「同じ時刻に、同じ風が来るとは限らんぞ」
カイは頷いた。
「ここから見えるのは、あの旗と、倉の角。下の通路全部じゃない」
彼は紙の窓の位置へ指を添えた。
見えない範囲を塗りつぶさず、余白のままにしてある。
「夕方の交代前に、見た所は書ける。あんたの昨日の矢印を見ながら写す方じゃなくて、今日のを」
カイは、お願いします、と小声で返した。
担当はもう窓へ向き直っていた。彼のためだけに港を見ている人ではない。
施療所で、セナは足の台を使い、背を椅子へ預けていた。
カイが入ると、資料の袋ではなく、彼の鞄へ目を向ける。
「艇は?」
彼は指で小さな形を作り、部材が入る向きを示した。
「一つ、合った」
「全部、ではなくて?」
頷き、紙へ今日見た所を描く。
セナは図の細い影を見て、ゆっくり笑った。
「嬉しそうね」
彼は頷いた。
誰かを助けられるようになったからだけではない。自分が舵を取ってきた艇へ、自分の見たことが、また少し戻ったのだ。
セナは左手で紙の向きを変えた。
「この印、外から見えなくなる?」
彼は、覆いの下、と書いた。
「じゃあ、帰ってくる形を、中で作ってるのね」
カイは彼女を見た。
大きな話へすぐ変えられたのではない。その言葉の前に、彼女は小さな部材の形を、自分で見ようとしていた。
彼は図へ、ミレイが合わせた、と一行足した。
セナもその名を声へ出した。ここにいない人へ勝手な心情は添えず、今日の仕事として受け取った。
*
午後、二人は同じ机で別のことをして過ごした。
カイは午前の図へ、まだ触っていない所を残した。セナは左手で一枚ずつ紙を送り、窓の傷の図と、自分たちの観測の図を見た。
痛めた右腕へ紙束を預けない。疲れれば、続きを口で言う前に休む。
カイも、彼女が黙ったたびに代わりに紙を読んでやろうとはしなかった。
窓から、別の荷車の音が来る。
仕事の音に似たものを聞くたび外へ向かいたくなる身体を、椅子へ戻す。休むのは、何も考えずにいられることではなかった。
「私、白い線の図ばかり見てた」
しばらくして、セナが言った。
カイが顔を向けると、彼女は父の資料ではなく、北倉の窓の図を示した。
「どの傷が前からあったかは聞いた。でも、そこへ何の光が入る窓か、まだ、自分で見分けてない」
カイは、次に窓へ行けるか、と書きかけた。
セナが首を振る。
「今、私が歩く相談にはしない。あなたの喉も、まだそうだから。先に、窓から何が見えるかの紙を揃えたい」
彼はペンを置いた。
連れて行けない人がいるたび、別の船や別の足をすぐ探す必要はない。行ったあとで何を確かめたいかが分からないままなら、移動だけ増えてしまう。
彼女は窓の図へ、父の図とは違う色の紙を添えた。
夕方、交代のあとで渡された監視担当の控えを、カイは受け取りに行った。
男が紙の下を指す。
「今日は、倉の角に見える旗が何度か向きを変えた。上の雲は、ここからは切れて見えた。全部同じ向きかは、書いてない」
記された時刻は、昨日の突風の時刻とは違った。
カイは頷き、紙を折らずに鞄へ入れた。
新しい異常が見つからなかったから、何もなかった紙、というわけではない。
ここから見えた物と、見えなかった物が、昨日の自分の矢印とは別に残っている。
セナは二つの図を、同じ高さへ並べた。
昨日の低い旗の反転。今日の角の旗の揺れ。雲の方向は、どちらにも同じ長さの矢印を引けない。
「この風だけで、星が近づいたとは言えない」
彼女は最初に言った。
カイは頷く。
「でも、倉の角で曲がる分があるなら、昨日の図から、どこを別に考えるか決められる」
左手の指が、窓と桟橋の間へ止まる。
「次は、ここ。建物を一つ挟まない所から、同じ時刻に見た旗を一つ。上の雲が見えなければ、見えないままにする」
カイは紙へ、誰に頼む、と書いた。
「港でその場所に立つ人へ、時間を先に。私たちのために、船の仕事を止めてもらう頼み方ではなくて」
彼は頷き、その一箇所を丸で囲んだ。
*
返送の照会は、その日も届かなかった。
机の上へ増えたのは、別の港からの正解ではない。自艇の一箇所が合った図と、北倉で今日、見える範囲を見た紙だった。
北倉の紙には、担当が窓を離れていた時間も一つ残っていた。セナはそこへ矢印を足さなかった。雲が切れていた時間と、人が見ていなかった時間は、同じ空欄でも違う。カイはその下へ二つの言葉を書き分けた。次に誰かが図だけを読む時、同じ意味へ戻さないためだった。
カイは昨日の受取控えと並べ、返事を待つ方へ戻した。
「今日、少しがっかりした?」
セナが訊いた。
彼は、一つ頷いた。
「私も。早く、同じ線だったって聞きたい」
彼女は窓を見た。
「違ったって返事でも、聞くって決めたのにね」
カイは、決めても、欲しい方はある、と書いた。
セナが笑った。分かった人の正しさだけを並べているより、その方が、彼には近く感じられた。
彼は椅子から立つ前に、艇の図を一度見た。
水へ出れば、部材の印は見えなくなる。艇がちゃんと動く時、乗っている人が毎回そこを考える必要はない。
それでも、次に異なる音がしたら、今日見た向きと、ミレイが指した傷を思い出せる。
帰るための道は、遠くへ進む時にだけ作る物ではなかった。
まだ飛ばない艇の内側でも、休んでいる人の机でも、一つずつ作れる。
セナが、自分の紙を紐でまとめた。
「明日は、この丸の所を頼む。それができたら、その先」
カイは、自分の艇へ付いた小さな印と、彼女の丸を見比べた。
同じ意味の印ではない。けれど、どちらも、今日までなかった次の手の置場だった。




