声の届かない岸へ、旗を渡す
【前回までの人物】
・カイ:自由港カレドの運び屋。操船と荷綱の扱いに慣れている。
・セナ:星図の研究者。負傷後の療養を続けながら、観測と記録を照らし合わせる。
・ミレイ:港の機関士。カイの艇の修理にも関わる、現場経験のある技術者。
照会の紙へ、セナは父の名を書かなかった。
朝の窓から入る光を見て、一度だけペンへ手を伸ばしかける。だが、左手で紙を押さえることにし、カイの書く先を声で追った。
「昨日の北倉。窓の左の角から、見えた端を二つ。動いていた時間は、船の記録と一緒にしないで」
カイは頷き、空けた欄へ小さく線を引いた。
喉はまだ痛い。寝て起きれば元の声が戻ると思ったが、最初の水を飲み込む時に、その期待は引っ掛かった。
彼は紙をセナへ向けた。
『父の原図は、添えない』
「うん。渡すのは、私たちが昨日見た図。父の物を使う相談とは、別にする」
彼女は言い終え、右足の台を少し見下ろした。
今日も歩いて見に行くのではない。包帯の腕を机へ乗せ、書けるつもりで動かすのでもない。
「同じ時刻の記録が、向こうになければ?」
カイは短く訊いた。
「ない、と返ってきてもらう。その代わり、次はいつ見られるか聞く。向こうの天気も、窓も、ここと違うから」
セナの指が、昨日の紙の空欄へ止まった。
望む答えを書いてもらう手紙ではなかった。
港の記録係が来ると、三人で写しの範囲を確かめた。
原本はここに残し、持ち出す紙には、どこから見た図かを付ける。名簿や、北倉へ着いた船の乗客の名は添えない。
「この照会は、沿岸の定期便の連絡袋へ入れられます。向こうの港の記録所へ渡し、返送便の有無を聞きます」
係が説明した。
「明日には、答えが?」
セナの声が少し速くなった。
係は首を横へ振った。
「届いたあと、探してもらう時間が要ります。返事を載せる便も、先方で決めます。船長に、その日のうちに返答を持ち帰れとは頼めません」
「そうね。……そうしてください」
彼女は図の端を整え直した。
カイにはその指が、期待を引っ込める指ではなく、遠くへ届く大きさに折る指に見えた。
彼は連絡袋へ入れる封筒を受け取った。
今日、彼が運ぶのは、誰かの正しさを証明する答えではない。答えを持つかもしれない相手へ、問いを渡す仕事だった。
*
北倉へ寄ると、監視担当が窓の傷の図を渡してくれた。
煤けた灰色の外套の肘は、今日も窓枠へ擦れて白くなっている。
「夏からあるのは、これ。下のは、いつ付いたか知らん。全部、前からあったって書くなよ」
カイが親指を立てると、男は少し眉を上げた。
「声、まだ出さん方がいいのか」
彼は喉へ触れ、頷いた。
「じゃあ、旗を持ってみろ。昨日、見てたやつだ」
窓の脇から、短い柄の旗が渡された。
手にすると、見ていた時より布が重い。風を受けた途端、腕が横へ引かれた。
カイは柄を握り直し、男を見る。
「振り回さなくていい。まず、誰が見てるかを見ろ」
監視担当は外の岸を指した。
荷を下ろす人は、窓を見ていなかった。船首の係留を見ている人は、顔だけ少し上げている。
同じ旗を上げても、同じ相手へ届くわけではない。
カイは一度旗を下ろし、合図を受ける場所へ立つ男と、先に目を合わせた。
「そう。勝手な新しい合図を作るな。港で使ってる形で、受けた返事も見ろ」
男が手を上げた。カイも教わった位置へ旗を出す。
声は使わなかった。
それでも、相手が受け取ったことは見えた。
赤銅色の髪を布でまとめたミレイが、倉の外から手を振った。
袖をまくった腕には油の跡があり、持っている工具の先は布で包んである。
「カイ。あんたの艇、今日は部材を合わせる方。見に来るなら、荷を下ろしてからにして」
彼は封筒を持ち上げた。
「連絡便へ?」
カイが頷くと、ミレイは海の方を見た。
「先に渡しておいで。私の作業、待ってる顔をされると手が増えるわけじゃないし」
彼は札へ書いた。
『腕、二本に見えてる』
「なら、二本でできる分だけ頼んで」
彼女は笑い、北倉の図を覗いた。
船の中で使う部品の図とは違う。窓の傷に付いた小さな印を、ミレイは工具を持っていない方の手で指した。
「昨日の反射、これだった?」
カイは首を横へ振り、分からない、と書き足す。
「よし。じゃあ、図が来たから分かったことにしない。セナへ、そのまま」
*
沿岸便は、低い桟橋へ横を寄せていた。
長い航海に使う大船ではなく、港と近くの寄港地をつなぐ船だ。甲板では乗客の荷と、先へ届ける小箱が別々にまとめられている。
白い眉の船長が、紺の外套を締めながら記録係を待っていた。
「照会の袋ですね。向こうの記録所まで、通常の連絡便として受け取ります」
係が封筒の表を確かめ、船長が自分の受取欄へ印を置く。
カイは封筒を直接、知らない乗客へ渡さなかった。
物を運ぶ時、相手が知っている人かより、どこまでを引き受けた人かが大事になる。
「返事を積めるかは、先で聞いてきます。明日の復路も、天気次第です」
船長の声は古く擦れていた。
「こいつが、図を書いたのか」
係がカイを見る。
「観測した二人のうちのお一人です。図の原本は、港へ残します」
船長は封筒を持ち上げ、カイへ頷いた。
「運ぶ方は、俺が預かる。答えの方は、向こうが探す」
カイは、そこで返事を急かさなかった。
自分が頼まれた時、いつも先に渡してほしかった分け方を、目の前の船長がしていた。
桟橋から戻る時、海の匂いが急に強くなった。
カイは顔を上げた。
さっきまで船の側面へ押し付けられていた小さな旗が、反対へはためいている。
上の雲は、同じ向きで流れている。
低い所だけ、風が違った。
彼は記録係の袖へ触れ、北倉を指した。
係が顔を向けるより先に、倉の軒から吊った布が大きく鳴った。
荷役の一人が、声を上げた。
桟橋の上で、積み替えを待っていた空の木枠が傾く。軽い物だからこそ、下から来た風に持ち上げられたのだ。
運んでいた人の手が、紐を追って伸びた。
カイも反射で叫びかけ、喉へ痛みが走った。
声が出なかった。
舌の奥で無理をするより先に、手の中の旗へ目が落ちる。
借りたままだった。
*
カイは旗を上げ、北倉の窓を見た。
監視担当がこちらを見ていた。
目が合ったことを確かめ、港で使う停止の合図を出す。男が受けた手を返し、窓の隣へ大きな旗を上げた。
沿岸便の船長がそれを見た。
動きかけた甲板の人が止まり、張りかけた綱を、その場で待つ。
カイは木枠を追って走らなかった。飛んだ物へ人が集まれば、同じ風の下で体が重なる。
代わりに、人が退く側へ回り、空いている通りを腕で示した。
目の前の荷役がその先を見る。頷き、伸ばしていた手を戻した。
木枠が床を滑り、杭の手前で向きを変える。
ミレイが、立て掛けてあった板を低い側へ倒し、そこへ人が足を入れないようにした。
「枠はあと! みんな、そこから離れて!」
彼女の声が通る。
カイは同じ方を指し続けた。
使えない声を、他人の声まで止めてしまう理由にしなかった。
風が一度抜けた。
木枠は杭に当たって止まったが、誰もすぐに拾いに行かなかった。
北倉の旗は上がったままだった。
カイは桟橋の端を見る。沿岸便が流されたわけではない。船長と岸の人が、綱の状態を互いに見ている。
小箱が一つ傾きかけ、甲板の人が重い箱の内側へ寄せた。
彼は自分の旗を下ろしかけ、監視担当を見た。
男の手はまだ動かない。
何も飛んでいない、という自分の見える範囲だけで、港の停止を終わらせるわけにはいかなかった。
少しして、男が窓から合図を返した。
岸の人へ順に確認が回り、沿岸便もそこで初めて次の作業へ戻る。
カイの腕は、旗を持った形のまま少し強張っていた。
喉の痛みよりも、そちらを先に自覚したことが、意外だった。
「大きい声を出せなくても、腕は疲れるだろ」
北倉へ戻った彼へ、監視担当が言った。
カイは苦笑し、旗を返した。
「……借りた」
「見てた。受ける相手がいたから、使えた。旗だけ買って艇へ置けば同じ、と思うなよ」
彼は頷いた。
次の便へ札を持っていくという昨日の考えに、今日、返事を受ける相手の場所が付いた。
*
記録係は、風の時刻を空の図へ書き足さなかった。
新しい紙を出し、北倉の窓と桟橋の位置を描く。
カイが見た旗の向き。上の雲は、その時どう見えたか。停止の合図を出した時刻と、解除した時刻。
白い線を見たことと、今日、風が変わったことを、一つの事件の証拠へ急いで束ねない。
戻ってきたミレイへ、カイは短く訊いた。
「荷の方、誰か怪我は」
「今、見た範囲ではなし。手を引っ込めた人も、あとで自分の指を確かめてもらう。木枠は角が割れた。使えると思って、そのまま次へ積まない」
彼女は工具の布を巻き直した。
「あんたの艇は、ここの仕事が終わってから。今日全部終わるって約束は、してないからね」
カイは札へ、知ってる、と書いた。
その下に、ありがとう、と足すと、ミレイはすぐ目を逸らした。
「お礼は、ちゃんと休む方で。セナにも、今日のことを興奮して一息で話さない」
彼は思わず笑い、喉を押さえた。
「ほら」
彼女が呆れた顔をする。
壊れた物を前にしても、二人の仕事には、こういう顔を返せる余地がまだあった。
沿岸便が離岸したのは、風の様子を見直し、荷の積み方を確かめたあとだった。
船長が桟橋へ顔を向ける。
「袋は預かった。先で出せなきゃ、出せなかったって持って帰る」
カイは手を上げた。
その返事を、船長が見た。
見送りの手と、港の停止の旗は、同じ意味ではない。それでも相手を見てから出すことは、どちらも同じだった。
低い船が水路へ進み、北倉の窓から見える所を抜けていく。
照会の紙が、初めて自分たちの港の外へ出た。
すぐ、答えになるわけではない。
だが、机へ畳んだままでは届かない問いが、今、別の岸へ向かっている。
*
施療所へ戻ると、セナは窓辺ではなく、足の台を置いた椅子で待っていた。
彼女はカイの顔を見てから、空いた手を見た。
「渡せた?」
彼は頷き、受取の控えを置いた。
次に、北倉の窓の傷の図。
最後に、今日の風の紙を、別に広げる。
セナの目が、最後の一枚で止まった。
「これ、同じ方向じゃない」
カイは紙へ小さく矢印を足した。雲と低い旗が、それぞれどう見えたか。
彼女の左手が、父の資料を置いた袋へ伸びかける。
その手は、途中で止まった。
「比較したい。でも、その前に、あなたが見た順を聞きたい」
彼は椅子へ座った。
話す代わりに、まず三つの位置を紙へ置いた。セナが短く問い、彼が頷くか、書くかを選ぶ。
いつものように一息で説明できないもどかしさはあった。
けれど、話し終える前に次の仕事へ走っていくことも、今日はできなかった。
セナは最後まで聞き、紙を父の図の上へ重ねなかった。
「風が変わる理由は、一つじゃない。倉の間でも曲がる。だから、これだけで星のせいとは言えない」
カイが頷く。
「でも、ここで違う向きが見えた、という記録は残る。向こうの岸へ送った問いと、一緒に、次の比較ができる」
彼女の声には、怖さと期待が両方あった。
父の正しさを待つだけの時間から、自分たちの見た物が少しずつ増えている。
カイは札へ書いた。
『答えが来るまで、こっちでも見てる』
「うん。休む時間も、入れて」
セナが笑った。
机の端で、封筒を留めた紐の残りが揺れていた。
セナはその一本を左手へ取り、今度は自分の観測の紙をまとめる方へ使った。
「父の知り合いに送る方が、早いと思ってた」
彼女は、結び目を見たまま言った。
カイは手を止めた。
「早い答えが欲しかった。でも、知ってる人が父の名を見て頷いてくれるだけだと、私は、自分で見た線と父の図を、また一緒にしてしまう」
彼は紙へ短く返した。
『一緒に見た』
セナは読み、すぐに笑わなかった。紐の端を紙の下へ入れ直してから、頷く。
「うん。昨日も、今日も。向こうで違う物が見えたら、それも聞きたい」
父へ戻りたい気持ちを捨てた声ではなかった。その隣に、自分で確かめたい場所を一つ、増やした声だった。
彼は水を取り、飲み込める速さで喉へ通した。
自艇はまだ修理中。セナの足も腕も、次の国へ出られる状態にはなっていない。
それでも今日、港を離れた物がある。
誰かに言われて運ぶだけではなかった、最初の問い。
カイは受取の控えを畳み、自分の鞄へしまった。
空の線は窓に見えない。遠くの船も、もう見えない。
その見えない距離の向こうに、返事を待つ岸を、自分たちの仕事で一つ作れた。




