↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/28

声の届かない岸へ、旗を渡す

【前回までの人物】

・カイ:自由港カレドの運び屋。操船と荷綱の扱いに慣れている。

・セナ:星図の研究者。負傷後の療養を続けながら、観測と記録を照らし合わせる。

・ミレイ:港の機関士。カイの艇の修理にも関わる、現場経験のある技術者。

 照会の紙へ、セナは父の名を書かなかった。

 朝の窓から入る光を見て、一度だけペンへ手を伸ばしかける。だが、左手で紙を押さえることにし、カイの書く先を声で追った。

「昨日の北倉。窓の左の角から、見えた端を二つ。動いていた時間は、船の記録と一緒にしないで」

 カイは頷き、空けた欄へ小さく線を引いた。

 喉はまだ痛い。寝て起きれば元の声が戻ると思ったが、最初の水を飲み込む時に、その期待は引っ掛かった。

 彼は紙をセナへ向けた。

『父の原図は、添えない』

「うん。渡すのは、私たちが昨日見た図。父の物を使う相談とは、別にする」

 彼女は言い終え、右足の台を少し見下ろした。

 今日も歩いて見に行くのではない。包帯の腕を机へ乗せ、書けるつもりで動かすのでもない。

「同じ時刻の記録が、向こうになければ?」

 カイは短く訊いた。

「ない、と返ってきてもらう。その代わり、次はいつ見られるか聞く。向こうの天気も、窓も、ここと違うから」

 セナの指が、昨日の紙の空欄へ止まった。

 望む答えを書いてもらう手紙ではなかった。


 港の記録係が来ると、三人で写しの範囲を確かめた。

 原本はここに残し、持ち出す紙には、どこから見た図かを付ける。名簿や、北倉へ着いた船の乗客の名は添えない。

「この照会は、沿岸の定期便の連絡袋へ入れられます。向こうの港の記録所へ渡し、返送便の有無を聞きます」

 係が説明した。

「明日には、答えが?」

 セナの声が少し速くなった。

 係は首を横へ振った。

「届いたあと、探してもらう時間が要ります。返事を載せる便も、先方で決めます。船長に、その日のうちに返答を持ち帰れとは頼めません」

「そうね。……そうしてください」

 彼女は図の端を整え直した。

 カイにはその指が、期待を引っ込める指ではなく、遠くへ届く大きさに折る指に見えた。

 彼は連絡袋へ入れる封筒を受け取った。

 今日、彼が運ぶのは、誰かの正しさを証明する答えではない。答えを持つかもしれない相手へ、問いを渡す仕事だった。


     *


 北倉へ寄ると、監視担当が窓の傷の図を渡してくれた。

 煤けた灰色の外套の肘は、今日も窓枠へ擦れて白くなっている。

「夏からあるのは、これ。下のは、いつ付いたか知らん。全部、前からあったって書くなよ」

 カイが親指を立てると、男は少し眉を上げた。

「声、まだ出さん方がいいのか」

 彼は喉へ触れ、頷いた。

「じゃあ、旗を持ってみろ。昨日、見てたやつだ」

 窓の脇から、短い柄の旗が渡された。

 手にすると、見ていた時より布が重い。風を受けた途端、腕が横へ引かれた。

 カイは柄を握り直し、男を見る。

「振り回さなくていい。まず、誰が見てるかを見ろ」

 監視担当は外の岸を指した。

 荷を下ろす人は、窓を見ていなかった。船首の係留を見ている人は、顔だけ少し上げている。

 同じ旗を上げても、同じ相手へ届くわけではない。

 カイは一度旗を下ろし、合図を受ける場所へ立つ男と、先に目を合わせた。

「そう。勝手な新しい合図を作るな。港で使ってる形で、受けた返事も見ろ」

 男が手を上げた。カイも教わった位置へ旗を出す。

 声は使わなかった。

 それでも、相手が受け取ったことは見えた。


 赤銅色の髪を布でまとめたミレイが、倉の外から手を振った。

 袖をまくった腕には油の跡があり、持っている工具の先は布で包んである。

「カイ。あんたの艇、今日は部材を合わせる方。見に来るなら、荷を下ろしてからにして」

 彼は封筒を持ち上げた。

「連絡便へ?」

 カイが頷くと、ミレイは海の方を見た。

「先に渡しておいで。私の作業、待ってる顔をされると手が増えるわけじゃないし」

 彼は札へ書いた。

『腕、二本に見えてる』

「なら、二本でできる分だけ頼んで」

 彼女は笑い、北倉の図を覗いた。

 船の中で使う部品の図とは違う。窓の傷に付いた小さな印を、ミレイは工具を持っていない方の手で指した。

「昨日の反射、これだった?」

 カイは首を横へ振り、分からない、と書き足す。

「よし。じゃあ、図が来たから分かったことにしない。セナへ、そのまま」


     *


 沿岸便は、低い桟橋へ横を寄せていた。

 長い航海に使う大船ではなく、港と近くの寄港地をつなぐ船だ。甲板では乗客の荷と、先へ届ける小箱が別々にまとめられている。

 白い眉の船長が、紺の外套を締めながら記録係を待っていた。

「照会の袋ですね。向こうの記録所まで、通常の連絡便として受け取ります」

 係が封筒の表を確かめ、船長が自分の受取欄へ印を置く。

 カイは封筒を直接、知らない乗客へ渡さなかった。

 物を運ぶ時、相手が知っている人かより、どこまでを引き受けた人かが大事になる。

「返事を積めるかは、先で聞いてきます。明日の復路も、天気次第です」

 船長の声は古く擦れていた。

「こいつが、図を書いたのか」

 係がカイを見る。

「観測した二人のうちのお一人です。図の原本は、港へ残します」

 船長は封筒を持ち上げ、カイへ頷いた。

「運ぶ方は、俺が預かる。答えの方は、向こうが探す」

 カイは、そこで返事を急かさなかった。

 自分が頼まれた時、いつも先に渡してほしかった分け方を、目の前の船長がしていた。


 桟橋から戻る時、海の匂いが急に強くなった。

 カイは顔を上げた。

 さっきまで船の側面へ押し付けられていた小さな旗が、反対へはためいている。

 上の雲は、同じ向きで流れている。

 低い所だけ、風が違った。

 彼は記録係の袖へ触れ、北倉を指した。

 係が顔を向けるより先に、倉の軒から吊った布が大きく鳴った。


 荷役の一人が、声を上げた。

 桟橋の上で、積み替えを待っていた空の木枠が傾く。軽い物だからこそ、下から来た風に持ち上げられたのだ。

 運んでいた人の手が、紐を追って伸びた。

 カイも反射で叫びかけ、喉へ痛みが走った。

 声が出なかった。

 舌の奥で無理をするより先に、手の中の旗へ目が落ちる。

 借りたままだった。


     *


 カイは旗を上げ、北倉の窓を見た。

 監視担当がこちらを見ていた。

 目が合ったことを確かめ、港で使う停止の合図を出す。男が受けた手を返し、窓の隣へ大きな旗を上げた。

 沿岸便の船長がそれを見た。

 動きかけた甲板の人が止まり、張りかけた綱を、その場で待つ。

 カイは木枠を追って走らなかった。飛んだ物へ人が集まれば、同じ風の下で体が重なる。

 代わりに、人が退く側へ回り、空いている通りを腕で示した。

 目の前の荷役がその先を見る。頷き、伸ばしていた手を戻した。

 木枠が床を滑り、杭の手前で向きを変える。

 ミレイが、立て掛けてあった板を低い側へ倒し、そこへ人が足を入れないようにした。

「枠はあと! みんな、そこから離れて!」

 彼女の声が通る。

 カイは同じ方を指し続けた。

 使えない声を、他人の声まで止めてしまう理由にしなかった。


 風が一度抜けた。

 木枠は杭に当たって止まったが、誰もすぐに拾いに行かなかった。

 北倉の旗は上がったままだった。

 カイは桟橋の端を見る。沿岸便が流されたわけではない。船長と岸の人が、綱の状態を互いに見ている。

 小箱が一つ傾きかけ、甲板の人が重い箱の内側へ寄せた。

 彼は自分の旗を下ろしかけ、監視担当を見た。

 男の手はまだ動かない。

 何も飛んでいない、という自分の見える範囲だけで、港の停止を終わらせるわけにはいかなかった。


 少しして、男が窓から合図を返した。

 岸の人へ順に確認が回り、沿岸便もそこで初めて次の作業へ戻る。

 カイの腕は、旗を持った形のまま少し強張っていた。

 喉の痛みよりも、そちらを先に自覚したことが、意外だった。

「大きい声を出せなくても、腕は疲れるだろ」

 北倉へ戻った彼へ、監視担当が言った。

 カイは苦笑し、旗を返した。

「……借りた」

「見てた。受ける相手がいたから、使えた。旗だけ買って艇へ置けば同じ、と思うなよ」

 彼は頷いた。

 次の便へ札を持っていくという昨日の考えに、今日、返事を受ける相手の場所が付いた。


     *


 記録係は、風の時刻を空の図へ書き足さなかった。

 新しい紙を出し、北倉の窓と桟橋の位置を描く。

 カイが見た旗の向き。上の雲は、その時どう見えたか。停止の合図を出した時刻と、解除した時刻。

 白い線を見たことと、今日、風が変わったことを、一つの事件の証拠へ急いで束ねない。

 戻ってきたミレイへ、カイは短く訊いた。

「荷の方、誰か怪我は」

「今、見た範囲ではなし。手を引っ込めた人も、あとで自分の指を確かめてもらう。木枠は角が割れた。使えると思って、そのまま次へ積まない」

 彼女は工具の布を巻き直した。

「あんたの艇は、ここの仕事が終わってから。今日全部終わるって約束は、してないからね」

 カイは札へ、知ってる、と書いた。

 その下に、ありがとう、と足すと、ミレイはすぐ目を逸らした。

「お礼は、ちゃんと休む方で。セナにも、今日のことを興奮して一息で話さない」

 彼は思わず笑い、喉を押さえた。

「ほら」

 彼女が呆れた顔をする。

 壊れた物を前にしても、二人の仕事には、こういう顔を返せる余地がまだあった。


 沿岸便が離岸したのは、風の様子を見直し、荷の積み方を確かめたあとだった。

 船長が桟橋へ顔を向ける。

「袋は預かった。先で出せなきゃ、出せなかったって持って帰る」

 カイは手を上げた。

 その返事を、船長が見た。

 見送りの手と、港の停止の旗は、同じ意味ではない。それでも相手を見てから出すことは、どちらも同じだった。

 低い船が水路へ進み、北倉の窓から見える所を抜けていく。

 照会の紙が、初めて自分たちの港の外へ出た。

 すぐ、答えになるわけではない。

 だが、机へ畳んだままでは届かない問いが、今、別の岸へ向かっている。


     *


 施療所へ戻ると、セナは窓辺ではなく、足の台を置いた椅子で待っていた。

 彼女はカイの顔を見てから、空いた手を見た。

「渡せた?」

 彼は頷き、受取の控えを置いた。

 次に、北倉の窓の傷の図。

 最後に、今日の風の紙を、別に広げる。

 セナの目が、最後の一枚で止まった。

「これ、同じ方向じゃない」

 カイは紙へ小さく矢印を足した。雲と低い旗が、それぞれどう見えたか。

 彼女の左手が、父の資料を置いた袋へ伸びかける。

 その手は、途中で止まった。

「比較したい。でも、その前に、あなたが見た順を聞きたい」

 彼は椅子へ座った。

 話す代わりに、まず三つの位置を紙へ置いた。セナが短く問い、彼が頷くか、書くかを選ぶ。

 いつものように一息で説明できないもどかしさはあった。

 けれど、話し終える前に次の仕事へ走っていくことも、今日はできなかった。


 セナは最後まで聞き、紙を父の図の上へ重ねなかった。

「風が変わる理由は、一つじゃない。倉の間でも曲がる。だから、これだけで星のせいとは言えない」

 カイが頷く。

「でも、ここで違う向きが見えた、という記録は残る。向こうの岸へ送った問いと、一緒に、次の比較ができる」

 彼女の声には、怖さと期待が両方あった。

 父の正しさを待つだけの時間から、自分たちの見た物が少しずつ増えている。

 カイは札へ書いた。

『答えが来るまで、こっちでも見てる』

「うん。休む時間も、入れて」

 セナが笑った。


 机の端で、封筒を留めた紐の残りが揺れていた。

 セナはその一本を左手へ取り、今度は自分の観測の紙をまとめる方へ使った。

「父の知り合いに送る方が、早いと思ってた」

 彼女は、結び目を見たまま言った。

 カイは手を止めた。

「早い答えが欲しかった。でも、知ってる人が父の名を見て頷いてくれるだけだと、私は、自分で見た線と父の図を、また一緒にしてしまう」

 彼は紙へ短く返した。

『一緒に見た』

 セナは読み、すぐに笑わなかった。紐の端を紙の下へ入れ直してから、頷く。

「うん。昨日も、今日も。向こうで違う物が見えたら、それも聞きたい」

 父へ戻りたい気持ちを捨てた声ではなかった。その隣に、自分で確かめたい場所を一つ、増やした声だった。


 彼は水を取り、飲み込める速さで喉へ通した。

 自艇はまだ修理中。セナの足も腕も、次の国へ出られる状態にはなっていない。

 それでも今日、港を離れた物がある。

 誰かに言われて運ぶだけではなかった、最初の問い。

 カイは受取の控えを畳み、自分の鞄へしまった。

 空の線は窓に見えない。遠くの船も、もう見えない。

 その見えない距離の向こうに、返事を待つ岸を、自分たちの仕事で一つ作れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。