船へ行く人、坂へ行く人
【前回までの人物】
・カイ:自由港カレドの運び屋。自艇が修理待ちの中、港務と船主へ避難輸送の協力を求めた。
・セナ:右足と腕の負傷が残る研究者。父の記録と港の観測を比べ、追加の二点観測と換算の再検証を頼んだ。
・船主:夜便で魚を運ぶ船の持ち主。船長へ確認し、避難輸送の候補を出せるか返事をすることになった。
当直の詰所では、紙を受け取った手が、すぐには離れなかった。
カイは板に挟んだ控えの端を持ち、窓口の向こうを見る。当直の担当は題を読み、届けた者の名を確かめてから、自分の机へ紙を置いた。
「ここで受け取る。記録室へは、受領したと戻してくれ。航路への指示は、責任者から出す」
「分かった。俺が、桟橋へ読み上げて回る紙じゃない」
相手が頷くのを見て、カイも板から手を離した。
紙を渡せば済む仕事と、その紙を使って誰かが動く仕事。その間には、受け取った人の顔が要った。
詰所の外で、滑車が軋んだ。
魚の箱が下りてくる。木の隙間から溶けた水が滴り、石畳の乾いた所を黒くする。カイは空の台車を持つ荷役へ声を掛け、使っていない一台を壁側へ寄せてもらった。
「通す荷は、何だ」
「まだ決まってない。足を下ろせない人が通れる幅を、先に見ておきたい」
「置場を塞ぐなよ。こいつは、次の箱で使う」
「ここへ戻す前に、詰所へ一声。人を動かす時は、こっちからも言う」
荷役は車輪の止めを確かめ、次の箱へ向き直った。
全部を空けて待てとは、頼めない。カイは、空いた幅と、いま箱を積んでいる幅を、自分の目で分けて見た。
記録室へ戻ると、セナは窓から少し離れた椅子にいた。
青みのある黒髪が、肩から胸へ一本の編み目になって下りている。右足は板に支えられ、包帯のある腕は体の近くへ引かれていた。
「渡せた?」
「担当へ。返事も、ここへ戻せと言われた」
彼女は頷き、机の上の紙へ目を落とす。その前には、新しい観測の控えが一組増えていた。
港の記録係が、カイの帰着を確かめ、当直責任者へ声を掛ける。
「二点目も届きました。見た時刻と受け取った時刻は、こちらです。換算を見直した担当の返事も、添えています」
当直責任者は、古い紙の上へ重ねず、隣へ開いた。
カイは、細かな数字を読んだふりをしなかった。セナが指を止める場所と、責任者が尋ねる順を見ていた。
「ルーヴェさん。今回の二点で、前の幅から外れた所は」
「港側の点は、前の幅の中です。もう一方も、換算の違いを含めると収まります。下がっていない、という値には、どちらも戻りませんでした」
声の終わりが短かった。
嬉しい結果を待っていたのではない。それでも、父の記録を使った自分の計算に、別の人の測った値が繋がった。
セナは紙の角を押さえ、もう一枚を右手で寄せる。
「同じ幅に入ったから、落ちる場所が一つに決まったわけではありません。けれど、低い航路へ影響するかもしれない時間が、先ほどより近くなっています」
「再検証した側も、その点は同じ見方です。高い経路がすべて使えるという返事ではない、ここも残します」
カイは、窓の外の旗を見た。
まだ、いつものように伸びている。
見ている今が普通だからこそ、まだ普通のうちに動く判断が要った。
船主が戻った時、手袋の片方が湿っていた。
その後ろへ、袖を肘までまくった人が続く。船主が椅子を引く前に、机の端へ手を置いた。
「候補にした方の船長だ。俺の話だけじゃ、乗る所の返事はできんからな」
カイは立ち、名を告げた。船長は会釈を返し、セナの足を支える板から、戸口の幅へ目を動かした。
「あんたが、乗り降りを見る運び屋か」
「ああ。桟橋へ、先に行けるか」
「俺も、そのつもりで来た。図へ船の形を描くより、早い」
当直責任者は、自分の担当へ伝言を渡し、次の連絡先を確かめた。
当直責任者も、部屋の仕事を別の担当へ引き継いで、出入口の確認へ同行した。セナと記録係は残り、カイは戻って話すと告げて戸口へ向かう。
「足の板を、置ける所も見て。私が、そこへ行くと決めたわけじゃないけど」
「ああ。乗れる場所と、乗るかどうかは、帰ってからだ」
セナは、もう一度頷いた。
候補の艇は、魚の箱を下ろしている桟橋にあった。
荷口は広かった。ただ、そこへ行く道の途中で、カイは足を止めた。
縁に沿って積まれた空箱が、人一人通る幅だけを残している。自分なら肩を斜めにして抜けられる。足を支える板が付いた人を、同じようには運べない。
船長は、カイが止まった場所を見た。
「先へ行かないのか」
「俺だけ通っても、今の用が済まない」
船主が荷役の持ち場へ声を掛けた。自分の便の空箱を、どこまで寄せられるかを訊く。カイは手を出す前に、置き直す先と、次の積込みの順を聞いた。
「そこの分は、こっちへ。通す物の幅を先に言え。何度も積み替えてる暇はない」
「板を持つ手の分も見る。一度、空の台車で通していいか」
「いい。人はまだ乗せるな。桟橋と甲板の高さも見てからだ」
空箱を寄せ、台車を押す。
車輪が、板の継ぎ目で止まった。カイは腕で強く押し切ろうとして、力を抜いた。空の物なら乗り越えてしまえる段でも、中の人の痛みは、あとから戻せない。
船長はしゃがみ、板の端へ指を当てた。
「ここは、渡す板だけで済ませるな。人を支える方と、台車を押す方が、一緒に持ち上げることになる」
「別に、足を受ける人が要る」
「施療の担当へ見せろ。俺は、船がどっちへ揺れるかを見る」
引き受けた言葉の範囲が、短い返事の中で分かれた。
カイは空の台車を一度戻した。届かなかった所を、届いたことにして先へ運ばなかった。
甲板の空いた場所へ上がると、魚と濡れた木の匂いが濃くなった。
箱を下ろした跡には、留め金が残っている。人が座るためには、縁を覆い、動かない支えを決めなくてはならない。
船主が、空いた甲板を見回した。
「これで何人、と言うのは、まだ早いな」
「乗る人と、荷と、手を貸す者を出してからだ。立てる奴を全部ここへ並べたら、座る人を運べなくなる」
船長が手を広げたのは、空いた床でなく、荷口へ戻る通り道だった。
カイは、坂を歩いて上がれる人まで船に詰めようと考えていたことに気づいた。
空を飛べる物があると、そこへ全部を載せたくなる。自分の艇を使えない焦りも、その考えに混じっていた。
「歩ける人の待つ場所は、別に要る。船の便を待つのも、桟橋の縁じゃない所だ」
「そっちは、港へ返す話だな。俺が荷倉の戸を勝手に開けることはできん」
カイは頷いた。
いま、この艇の中で全部を解こうとしなくてよかった。
当直責任者へ伝えるために、カイは、通れた所と詰まった所を分けて描いた。
船長が、濡れた指で紙へ触れそうになり、先に自分の袖で拭く。
「機関は、出せる状態だ。燃料と操船の者も、俺が見て返事を出す。ただし、元の夜便へ、そのまま戻れるとは言うな」
船主が手袋を握り直し、自分の返事を続けた。
「荷主への連絡は入れた。魚の受入れは、港が紹介した先と話を詰めてる。売れなくなった分を、なかったことにはしない」
「引受けた話の所と、金の返事がまだの所は、別に伝える」
「そうしてくれ。あんたが全部の代理で頷いても、船は軽くならん」
その声には、もう最初の会議の苛立ちだけではないものがあった。
床の広さは増えていない。それでも、誰の返事で何が動くかが、さっきより見えた。
港務へ戻る途中、当直の案内で、内側の坂へ続く道を歩いた。
風を避けて待てる建物と、その前の石敷き。港がもともと、便の遅れた乗客を待たせる場所として使っている所だった。今日も、誰も使わない空室ではない。
管理の担当が中の配置を示す間、カイは戸の外から、坂と桟橋へ分かれる道を見た。
歩いて上がれる人は、ここへ。船で移す人は、いったん下の屋内で待ち、担当が呼んでから桟橋へ。
長い板を抱えたまま坂の途中で船を待つ案より、少なくとも、戻る場所を塞がずに済む。
カイがそう話すと、当直責任者は、すぐに安全だという印をつけなかった。
「この建物を使う担当へ、待つ人数と出入口の役を渡します。坂の先まで、今日の風が同じという保証ではありません。観測と現場の報告で、使う経路を変えます」
「変える時は、ここの人から桟橋へ知らせる。船の方からも、迎えに来る前に」
「はい。誰が待っているか、片側だけで分かっている形にはしません」
カイは戸口の段を、図へ一本足した。
自分の足なら、何でもなく越える。その足で歩いた報告からこそ、抜けやすい線だった。
セナの前へ図を置くと、彼女は船の枠より、その段を先に見た。
「ここ、私が座ったまま通るなら、持ち上げてもらう所?」
「ああ。空の台車でも止まった。俺が強く押せるからいい、にはしなかった」
彼女は頷き、足を動かさずに椅子へ座り直した。
施療の担当が、板の位置を確かめる。セナの顔と指先を見てから、カイの図へ目を移した。
「ここへ運ぶなら、移す前に見せてください。右足を下ろさず支えられることと、持つ人の場所を先に。いま立って練習することはしません」
「私も、今日は、立って確かめるつもりはありません」
言葉の終わりは、少し硬かった。
カイが心配する前に、セナは図の下側を指す。
「最初から、みんな同じ船へ乗る必要はないんだね。私が待つ所で、次の観測も受け取れる?」
「記録の受取先は、港務で持ちます。ルーヴェさんが移る場合の届け先は、その時にこちらへ。移る前から、誰もいない机へ届くようにはしません」
「では、いまはここにいます。足を支えたまま、次の返事を聞きたいです」
彼女が選んだ待つ場所を、カイは図へ記した。
動かないことも、決めないまま残るのとは違っていた。
次の伝達を預かり、カイは一度、詰所へ戻った。
先ほど寄せた台車の横には、魚の箱が二つ下りていた。通り道そのものは空いている。荷役は、自分の仕事を続けながら、空けた方へ箱を戻さずにいてくれた。
カイは、また台車を動かす前に声を掛けた。
「下の屋内で、人が待つ。桟橋へ呼ぶまでは、ここに並ばせないことになった」
「なら、俺たちの方も、道の先が見える。人が来たら、こっちへ手を上げろ」
荷役が示したのは、滑車の下ではなく、その横の乾いた場所だった。
カイはそこへ立ってみた。腕を伸ばせば、積み下ろしを待つ者から見える。戸口からも、何を合図しているか分かる。自分が声を張るだけより、ひとつ遠くへ届く場所だった。
「俺が別の所へ回る時は、ここで引き継ぐ。合図する人がいなくなったら、そっちも困るだろ」
「頼むぞ。こっちも、便を止めた分まで、手が増えるわけじゃねえ」
カイは頷き、詰所の担当へ新しい控えを渡した。受け取った手が、今度は少し早く題を辿った。
戻る道で、自分の指に乾いた塩が白く残っているのが見えた。
星の高さを測る指ではない。けれど、誰がどこで手を上げるかを決め、相手が見えるか確かめることなら、今ここでできた。
記録室の戸へ戻る頃には、紙へ書いた待つ場所が、さっきよりはっきりした足音を持っていた。
船主からの返事と、観測の控えが、当直簿の同じ頁に並んだ。
候補の一隻。船長が確かめた機関と、乗るために要る人。まだ確定していない費用と荷の受入れ。
歩いて坂へ向かう道。足を支える人が呼ばれるまで待つ場所。どちらの出口も、勝手に箱を積み直さないよう、現場へ伝える担当。
当直責任者が顔を上げた。
「低い経路で出航を待つ便は、追加の確認が済むまで待機。ほかの経路へ回す判断も、各船の報告を合わせます。いま届く相手から伝えてください」
窓の外で、旗の上がる音がした。
星が落ち始めた合図ではない。まだ起こっていないことに備えて、人が変えた合図だった。
カイは、ようやく胸の中の息を吐いた。
「止まった船の方も、これから仕事が増えるな」
「増えた分は、あとでちゃんと数える。そのために、俺もここへ戻ってきたんだ」
「忘れない。荷を動かした分から、俺も残す」
船主は手袋を握り直し、今度は迷わず机へ置いた。
セナは、父の記録の写しへ一度触れた。
名前のある古い紙だけで、港が動いたわけではなかった。今日の港で測り、別の手で比べ、その結果を引き受ける人がいた。
「カイ。段を描いた図、こっちにも置いて」
「線が、ひどい方でいいか」
「段のある方。上手に描き直して、消さないで」
カイは図を彼女へ寄せた。自分の手では何でもなく越せる所を、残しておく紙だった。
窓の外には、まだ星の骸が浮いている。
港の音の中から、出航を急ぐ声が一つ減り、空箱を積み直す声が増えた。カイは、それを静かになった港とは呼べなかった。
戻るための用意を、ようやく始められた港だった。




