まだ浮いているうちに
【前回までの人物】
・カイ:自由港カレドの運び屋。帰港後、港務の担当と船主へ予測を説明する席を求めた。
・セナ:右足と腕の負傷が残る研究者。父の記録と港の観測を比べ、今夜から翌朝にかけて低い航路へ影響する可能性を示した。
・港の記録係:観測時刻と届いた時刻を分けて記録し、追加の二点観測と港務への引継ぎを扱っている。
止めてくれ、と言う前に、カイは、止める船の荷を訊かれた。
記録室へ来た船主は、潮で硬くなった革手袋を、机へ置かなかった。両手の間で畳み、紙から離して握っていた。日焼けした頬には、桟橋からここまで歩いてきた汗が残っている。
「今夜、うちから出す便の話だと聞いた。積荷まで、見たのか」
「まだだ」
カイは答えた。
船主は、椅子の背へ片手を掛ける。
「じゃあ、魚の箱と、明日の受け取りの約束も、まだだな」
責める声より、帰って片付けたい用事の多さが先にあった。
窓の外には、船の腹へ荷を上げる滑車が見える。乾いた軸の音が、細い間隔で鳴っていた。あの音を止めれば、人が助かる。そう思いかけていたカイは、その先の箱を一つも見ていなかった。
港務の当直責任者が、分厚い当直簿を開いた。
紺の上着の袖口に、白い塩の跡がある。机へ座る前にも窓の信号旗を見てきた人だった。
「便を止めるかどうかは、ここで話を聞いてからです。レイヴァンさん、まず、何が、いつまでに変わる見込みなのですか」
カイは、喉まで来ていた大きな言葉を引っ込めた。
「星が、低い航路へ影響する高さまで下がるかもしれない。早い方で今夜、遅い方で明日の朝。俺が計算したんじゃない。説明は、こちらから聞いてほしい」
セナへ顔を向ける。
彼女は鞄を膝へ持ち上げず、選んでおいた紙を、右手で机の中央へ送った。包帯のある腕を伸ばしきらない所で止める。足を支える板は、椅子の前の低い台に載ったままだった。
「ルーヴェです。先に、落ちる場所を一つに決めた図ではありません」
彼女が示したのは、近海側へ広がる帯だった。
「港の全部が同じように危ない、とも、港を外れる、とも言えません。けれど、次の観測を待つ間に、動かせる船と人を調べていただきたいんです」
船主は座った。
断りに来たのでも、頼まれたことを全部引き受けに来たのでもない。聞く間は取る、と、手袋を膝へ置いた。
カイも、残った椅子へ腰を下ろした。
港の記録係が、控えを三組、机へ並べた。
どの数字がどの場所の観測か。見た時刻と、ここへ届いた時刻。小さな番号を辿ると、元の記録へ戻れるようになっていた。
「原資料の箱は、保管の担当でお預かりしたままです。この紙は、目録を作った際に認められた範囲の写しです。こちらの二枚は港の観測控えです」
係の指は、紙を混ぜず、境を示した。
当直責任者は、セナの書いた換算の欄へ目を落とす。
「この古い観測と、今日の観測を、そのまま引き算したものではないのですね」
「角度の書き方と、見る位置を揃えました。揺れる艇の値は、岸の値より幅を広く取っています。それでも、下がる速さが増えている所は残りました」
セナは、言葉を足しかけ、一度、息を継いだ。
カイは手元の水の杯を寄せた。彼女は頷き、一口飲んでから、次の紙を選ぶ。
「同じ星を同じ時刻に、別の二点から、もう一度見てほしいです。私の計算も、港で扱える方に見直してほしい」
「異論が出れば?」
当直責任者の問いに、セナは杯を置いた。
「どこが違うかを聞きます。私が間違えた所なら、直します」
すぐには、どの紙も引かれなかった。
その待ち時間に、カイは、自分の腰の空いた道具掛けを触った。船に載せたまま点検へ回した道具もある。今すぐ、俺の艇を使ってくれと言える状態ではなかった。
船主は、図の帯から窓の外へ目を移した。
「あそこを、昨日も船が通ってる。今日もだ。俺の船長が、今のところ風は読めると言っていた」
「俺も、帰ってきた時には読めた」
カイは、そこで相手の話を切らなかった。
「今は通れる、ってことを、嘘にはしたくない。ただ、帰りまで同じかは分からない。俺たちが持ち帰ったのも、その話だ」
船主の指が、手袋の親指を一度裏へ折った。
「外れたら、遅れた魚は戻らない」
「ああ」
「当たったら、もっと戻らない物がある。そこを俺に、どっちも軽く言わないでくれ」
カイは、口を閉じた。
反対をする相手へ、怖さを分からせる言葉を探していた。だが、その人は、怖さを知らずに便を出していたわけではなかった。
「荷のことを、抜かしてた。まだ見てもないのに」
船主は首を振った。
「謝ってくれと言ってるんじゃない。何を頼むか、決めてくれ」
椅子の下で、カイは足の位置を変えた。
逃げる場所を探すためでなく、机のそばに、もう少し長くいるために。
「人を運ぶ船を、候補に出してほしい」
カイは、今度はそれだけを言った。
「今すぐ全員乗せろ、じゃない。誰を乗せられるか、何人で動かせるか、荷を下ろすなら何が要るか。そこを、船長と一緒に見たい」
「あんたの艇は」
「俺のは、部品を待ってから修理だ。借りた艇も点検中で、まだ使えると言えない」
言った途端、自分が何を頼みに来たかが、急にはっきりした。
自分で出せる船がないから、他の船へ、出せと言っている。
口にするのが嫌で、港を守るという大きな話の中へ隠したかったのだ。
「だから、頼む。船だけ貸してくれと言って、船員の手間を消すつもりはない。俺にできる積み替えと、乗り降りの手伝いはする」
船主は、カイの上着の継ぎと、綱で擦れた指を見た。
「運び屋か」
「ああ」
「なら、箱を一つ下ろしても、空いた所がそのまま座席にはならんのは、分かるな」
「分かる。人を載せるなら、別に見る」
船主は、初めて机へ手袋を置いた。図の上ではなく、空いていた端だった。
「魚を下ろすなら、持っていく先も要る。日向の石畳へ並べて、あとで考えるわけにはいかんぞ」
船主が窓の荷口を指すと、当直責任者は、当直簿の別の欄を開いた。
「保管の担当へ、使える場所と受け入れの条件を問い合わせます。今、空いていると約束はしません。荷主にも、便を変えた時の扱いを聞いてください」
船主は、机の手袋を引き寄せた。
「そっちは俺が聞く。何も決まらんうちに、箱を動かすなよ」
「動かさない。船を見て、下ろす必要がある分からだ」
カイは答えた。
人のために荷を捨てろ、と言えば早かった。だが、その箱を買い取ってくれる誰かも、帰らなければならない人の一人だった。
船主は、手袋を置いたまま、図へ向き直った。
セナが、足の台を見下ろした。
「私みたいに、足を下ろせない人もいます」
船主の目が、支えた板へ動く。
「寝かせたまま、運ぶ必要があるか」
「私のことなら、施療の人に聞いてください。座れる時間と、足の置き方は、先に確かめてほしいです。立って乗れと言われたら、乗れません」
短い言葉の最後に、少しだけ悔しさが混じった。
図を読めても、戸口の段一つで、次の場所へ行けなくなる。そのことを、頼む相手に見せなければならなかった。
船主は、彼女へ、心配するなとは言わなかった。
「うちの一隻は、荷口が広い。板を渡せるかは、桟橋と高さを見ないと分からん。船長にも聞く」
「お願いします」
セナは答え、自分の前へ紙を戻した。
カイは、その一隻に彼女を乗せると決めなかった。どこからどこへ動くのかも、まだ決まっていない。
ただ、ここで足を隠して話を進めなかったことは、次に船を見る時の、確かな用事になった。
当直責任者は、便の表へ細い線を引いた。
「出航待ちの船へ、短期の異常予測が出ていることを伝えます。出る前に、港の当直へ連絡を。観測の追加結果と、各船から見た風を合わせます」
船主が当直簿を見る。
「全部の船を、ここへ呼び戻すのか」
「ここにいる船と、連絡が届く船からです。届いていない相手まで知っていることにはしません。近海の信号担当へも、この紙を回します」
当直責任者は、その先を、記録係へ向けた。
「次の二点観測は、こちらの担当として続けてください。受け取る側を空けないよう、引継ぎも。ルーヴェさんの換算は、扱える者へ、元の控えと一緒に渡します」
「受け取った時刻も、別に残します」
記録係は、今まで使っていた用紙に、届け先を書き足した。
セナ一人が、痛む足を抱えて全ての返事を待ち続ける紙ではなくなった。
「船の手当は、どうなる」
船主の声で、カイは当直簿から顔を上げた。
「空けて待つのも、船員が動くのも、仕事だ。俺の返事一つで、あいつらの休みを消せん」
当直責任者は、すぐに金額を言わなかった。
「候補を出す際に、必要な人員と待つ時間、便を変える費用を添えてください。港で手配する部分を分けます。ここで全てを支払えると、約束はできません」
船主は、紙の船の欄を指した。
「それなら、候補の話までだ」
「はい。その先は、双方の条件を合わせてからです」
船主はカイへ視線を戻した。
「あんたが全部払うとか、言うなよ」
「言えない。俺の修理代も、まだ払ってない」
「それは、あまり頼もしくないな」
「船を貸す相手としては、正しい情報だろ」
船主の口元が、わずかに緩んだ。
カイも笑ったが、肩の張りまでは取れなかった。笑って済む金の話ではない。それでも、払えない物を払えると言わずに、座っていてもらえた。
船主は、手袋を片方だけはめ直した。
「二隻のうち、いま荷を下ろしてる方を見る。空いたら使える、とはまだ言わん。船長と機関を見てる者に、この話を聞かせる」
「俺も行く」
カイが立ちかけると、船主は手を上げた。
「先に俺から話す。こっちが引き受ける話だから、船長の返事は、俺が聞く」
カイは椅子の背から手を離した。
「……分かった。どこへ返事を取りに行けばいい」
「次の観測の連絡を受ける頃、ここへ戻る。遅れるなら、記録の窓口へ言づける」
記録係が、連絡先を確かめた。
返事の約束はできた。使える船の約束は、まだなかった。
カイは、その二つを混ぜずに頷いた。
戸口へ向かった船主は、一度だけ足を止めた。
「その帯に、どの桟橋が入るか。次に集まる時は、それを聞く」
「決まったふりはしない」
カイが言うと、船主は、セナの方を見た。
「頼む。外れてほしい方の話を、ちゃんと聞いてるからな」
セナは背を伸ばしかけ、痛みのある腕を引いた。
座ったまま、顔を上げる。
「私も、外れてほしいです。変わった結果が出たら、それも伝えます」
船主が出ていくと、廊下から潮風が入り、手袋の残した湿った匂いが薄くなった。
セナは、ようやく長く息を吐いた。
当直責任者は、協力を求める紙に、受け取った時刻を記した。
「この見込みを、港務で受け取ります。避難に備えた輸送の打診も、こちらから各担当へ。経路と待つ場所は、次の観測、風、動かせる船を揃えて詰めましょう」
カイは、その手が紙から離れるまで見ていた。
自分たちの計算が、全部正しいと判を押されたのではない。
間違っているかどうかも含めて、続きを引き受ける人ができたのだ。
「俺は、何を運ぶ」
彼が訊くと、当直責任者は、記録係が揃えた控えへ手を添えた。
「まず、当直の詰所へ、この組を。受け取る担当へ直接。桟橋の人を、その紙だけで避難させる指示ではありません」
「説明を受ける人へ、渡す。分からない所は、ここへ戻す」
当直責任者が、控えの一組をカイへ差し出した。
「お願いします」
カイは紙の端を合わせ、風で捲れないよう薄い板に挟んだ。
運ぶ物があると、指の力の入れ方が分かる。それだけに逃げないよう、紙の題を、もう一度読んだ。
戸口で、セナが呼んだ。
「カイ。父の記録、名前で止められなかった」
彼女の右手は、写しの端にあった。
「ああ。続きを読んでもらえる」
「うん。次は、私の間違いも見つかるかもしれない」
「俺の杭の絵は、もう、だいぶ怪しいって書いてあるぞ」
「高さを測ったことには、してないから」
セナは小さく笑い、すぐに笑いを収めた。
「帰ってきたら、船の話を聞かせて。私にも、どんな所で人が待つか、考えるために」
「船主が戻ってから、一緒に聞こう。俺が先に、全部決めて帰らない」
彼女は頷いた。
カイは、セナの右足が台に支えられているのを見てから、戸口を離れた。
港へ出ると、星の骸は、まだ空にあった。
積込みの滑車も鳴っている。風を待つ旗は、いつもの方向へ伸びていた。今日ここで聞いた話だけを知らなければ、変わった物を一つも挙げられない午後だった。
詰所へ向かう途中、カイは、戸の前へ出ていた空の台車を、通る人へ断って脇へ寄せた。紙を持つだけなら、その横を抜けられた。
足を上げられない人を連れて来るなら、そこを空けておきたかった。
どの船をどこへ出すかは、これから決める。
その前に、聞いてくれる人へ渡す控えが、彼の腕の中にあった。
星が、まだ浮いているうちに。




