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息を切らし、足の痛みを無視して校舎の階段を駆け上がる。
擦り減った靴底が廊下を叩く音が、静まり返った館内に虚しく響いていた。
ヘマタイトたちに痛めつけられた頬と肋骨が、一歩踏み出すたびにズキズキと不快な悲鳴を上げる。だが、そんな痛みに構っている余裕なんて僕にはない。
図書室でクリソベルから聞いた情報――『二年風のクラスAに、空中から想像の物体を出現させる特殊な魔法を使える者がいる』。
根拠なんてどこにもない、ただの藁にもすがるような噂だ。けれど、暗闇の中を彷徨う僕にとって、それは唯一視界に映った小さな、けれど確かな光だった。
「ハァ……ハァ……っ!」
目的の教室の前で足を止め、乱れた息を必死に整える。
重厚な木製の扉を叩く手が、自分でも分かるほど小刻みに震えていた。断られるかもしれない。追い返されるかもしれない。平民の僕が、上級生の貴族に声をかけるだけでも命がけだ。
それでも――セレスのあの顔が脳裏をよぎる。
『私に友達できちゃった!』
そう言って無邪気に笑った彼女の顔が。
意を決して扉を叩き、静かに押し開けた。
「失礼……します……」
放課後の教室には、数人の生徒が残っていた。その中央で、周囲の取り巻きに囲まれながら、優雅に文庫本を読んでいる少女が一人。澄んだ風のような爽やかなオーラを纏い、洗練された動作でページをめくっている。彼女が、噂の先輩――シリウス・フォレストだ。
「……何の用かしら、一年生。ここは二年の教室よ。しかも、見るからに平民のようだけれど」
シリウス先輩が本から目を切り、冷ややかな視線を僕に向けた。取り巻きの生徒たちから「なによアイツ、薄汚い」「平民が風のAクラスに泥を塗るなよ」という隠さない不快感が突き刺さる。
「あ、あの! 先輩にお伺いしたいことがあって来ました! 先輩の……『空中から物質を作り出す魔法』について、教えていただきたいんです!」
頭を深く下げ、叫ぶように言葉を吐き出した。
一瞬の静寂の後、教室内にクスクスとした嘲笑が広がった。
「プッ……アハハハ! なにアイツ、『空中から物質を作り出す』だって? バッカじゃないの!」
「無知な平民ってこれだから困るわね。そんな万物創世みたいな魔法があるわけないじゃない」
嘲笑の嵐に、僕は顔を跳ね上げた。
「え……? でも、図書室で聞いたんです! 空中から想像したものを出現させる魔法を使えるって……!」
すると、シリウス先輩は呆れたように小さく溜息を吐き、手にしていた文庫本をすっと横に差し出した。
「勘違いも甚だしいわね。私が使っているのは『空間転移の応用』よ」
「空間……転移……?」
「そう。あらかじめ別の場所に保管しておいた所有物を、風の魔力を媒介にして一瞬で手元に呼び寄せているだけ。何もない無の空間から物質を生成するなんて、神の領域の術式よ。この世の魔法の法則として、魔力はエネルギーであり、物質そのものへ変化・固定化することは不可能なの。分かったかしら、無知な弟君」
「……っ!」
頭を殴られたような衝撃が走った。
創世ではなく、ただの『転移』。
つまり、あの魔法石が「何もない空間から誰かの魔法によって突然生み出された」という僕の甘い説は、完全に破綻したことになる。
「ほら、納得したらさっさと失せなさいよ。怪我だらけで惨めな姿を見せないで頂戴」
取り巻きの生徒に背中を強く押され、僕は教室の外へ弾き出された。パタンと重い音を立てて扉が閉まる。
廊下の冷たい床に膝をつき、僕は深くうつむいた。
「ハハ……なんだよ、それ……」
自嘲の笑いが漏れた。
結局、振り出しだ。いや、振り出しどころか、唯一の希望の糸すらブツリと途切れさせられた。
魔法石の中に刻まれた謎の魔法陣。
なぜ、魔法石の中に魔法が『埋め込まれて』いたのか。
なぜ、本来なら表面にしか付与できないはずの魔法が、結晶の『内部』に存在していたのか。
「僕の知識じゃ……僕の頭じゃ、やっぱり何も分からないじゃないか……!」
悔しさと情けなさで、冷たい廊下に拳を叩きつけた。皮が破れ、赤い血が床に滲む。けれど、そんな痛みにすら気づかないほど、胸の奥がボロボロに痛んだ。
セレス。君は今、どこにいるんだ?
冷たい暗闇の中で、一人で泣いていないか?
「一人にしないでね」と言った君の言葉を、僕はまた破ってしまうのか?
自分の無力さに吐き気がした。平民でありながら天才だと錯覚し、早期卒業を目指してこの学院に入り、結果として大切な友達一人すら救えない。
ただの落ちこぼれ。ただの、無価値な平民。
僕は重い身体を引きずるようにして、鞄を抱え直した。
がばぁ、と大きな音がして、鞄の底からノートや教科書が床一面に散らばった。
「うそだろ……こんな時に……」
あまりの惨めさに、涙が一滴、床のノートにポタリと落ちた。
散らばった勉強道具を、震える手で一つずつ拾い集める。壊れた鞄。ヘマタイトに壊された制服。痣だらけの顔。
その時だった。
『解けた糸同士を魔力で再結合させ、硬化させた。壊れにくくもなり、修復できる、実に利便性の高い良い魔術じゃろ?』
頭の中で、図書室でのクリソベルの声が雷鳴のように響き渡った。
手の手を、ピタリと止める。
……え?
僕は、床に散らばったノートを見つめたまま、金縛りに遭ったように固まった。
脳裏に、あの時の情景がスローモーションで再生される。
クリソベルは、鞄を修復する時、何をした?
『解けた糸同士を魔力で再結合させ、硬化させた』
……硬化?
再結合?
僕の思考が、凄まじい速度で回転し始める。
この世界の常識では、魔法は「現象」であり、物質そのものにはなれない。魔法を付与するとしても、触れられる表面にしか術式を刻むことはできない。
だから、魔法石の『内部』に魔法陣を埋め込むことは絶対に不可能なはずだった。
だが――もし、それが『埋め込んだ』のではないとしたら?
「あ……」
口から、掠れた声が漏れた。
もし……元からそこにあった魔法石に魔法を注入したのではなく。
【発動した魔法そのものを、強引に『結晶化(固形化)』させて石の形に変化させた】のだとしたら?
「魔法を……固めた……?」
そうだ。もし攻撃魔法や術式そのものを魔力ごと強制的に「結晶」として固形化したのだとしたら。
その結晶の内部に、発動しかけていた魔法陣が『閉じ込められて』残るのも当然だ!
「だから……表面に付与したんじゃない……! 魔法そのものが、石になっていたんだ……!」
鳥肌が全身を駆け巡った。
ジグソーパズルの最後の一片が、パチリと音を立てて狂いなく嵌まった感覚。
魔法を結晶化させる悪魔のような技術。
それこそが、あの不気味な爆発と、内部に魔法陣を秘めた魔法石の正体――!
「セレス……!」
僕は弾かれたように立ち上がった。
散らばったノートを力任せに鞄に押し込み、破れた鞄を強く抱きしめる。
まだ、分かったのは敵の能力の「仕組み」だけだ。犯人が誰なのかも、セレスがどこに囚われているのかも、まだ何も掴めていない。
だけど。
諦めかけていた暗闇の中に、明確な「一筋の軌跡」が見えた。
「待ってて、セレス……! 絶対に、僕が見つけ出すから……!」
夕闇が迫る廊下を、僕はボロボロの体で再び駆け出した。
涙はもう、止まっていた。




