#08 確認の迷路
午後の業務を終えて、リンはケア局の一階にある相談窓口に向かった。
業務窓口とは別の場所にある。リンが普段座っている連携窓口は三階で、相談窓口は一階の奥だった。案内表示に従って歩いた。足元の光が点いては消える。壁の掲示が変わった。三階の掲示は業務連絡が中心だが、一階は来訪者向けになっている。
〈ご相談は、あなたのペースで〉
〈すべてのサポートは、ご本人の同意のもとに進めます〉
〈安心してお話しください〉
リンはこの種の文言を毎日書類で読んでいる。来訪者に渡す案内パンフレットにも同じ言葉が載っている。今日はそれを、受け取る側として読んでいた。
相談窓口の受付で名前を言った。「アマクサ・リンです。ケアサポート専門案内の件で」。受付の担当者が端末を操作して、「お待ちください」と言った。椅子を勧められた。座り心地のよい椅子だった。硬すぎず、柔らかすぎず。背もたれの角度が、自然に姿勢を正すように設計されている。
三分ほど待った。名前を呼ばれて、奥の個室に通された。小さな部屋だった。テーブルと椅子が二脚。壁は白い。窓はない。照明がやわらかい。室温は適切だった。少しだけ温かい。
担当者が入ってきた。四十代くらいの女性。穏やかな表情。声が落ち着いている。
「アマクサさん、本日はお越しいただきありがとうございます。ケアサポート専門案内をお受け取りになったとのことで、いくつかご確認させていただきます」
「はい」
「まず、この面談は強制ではありません。ご本人のご希望に基づいて進めます。途中でお辛くなった場合は、いつでも中断できます」
「はい」
「では、案内に記載されていた二つの選択肢について、ご確認いただけましたか」
「はい。初回面談か、専任アドバイザーの配置か」
「そうですね。どちらも、アマクサさんの生活をより快適にするためのサポートです。ご希望があればお聞かせください」
リンは少し考えた。「どちらも希望していません」と言おうとした。言おうとして、口を開いたが、言葉が出なかった。代わりに出てきたのは別の言葉だった。
「あの、どちらも選ばないということは可能ですか」
担当者は微笑んだ。困った顔ではなかった。理解を示す顔だった。
「もちろんです。ご本人のご意思を最も尊重いたします。ただ、案内が届いたということは、行動記録の確認結果に基づいて、サポートが有効と判断された状態です。サポートをお受けにならない場合でも、今回の面談記録は残りますので、今後の参考として活用させていただきます」
面談記録は残る。リンはその一文を頭の中で繰り返した。サポートを受けなくても、来たことが記録される。記録されるということは、「サポートを提案されたが受けなかった」という情報が端末の中に残るということだ。
「面談記録というのは、具体的にはどこに残りますか」
「ケア局の内部記録と、アマクサさんの生活記録の両方に反映されます。もちろん、プライバシーには最大限配慮いたします」
「生活記録にも」
「はい。これは、今後のサポートをよりスムーズに行うための措置です。アマクサさんにとって不利になるものではありません」
不利にはならない、と担当者は言った。不利にはならないが、記録には残る。来たことが残る。来て、提案を受けて、受けなかったことが残る。
「もう一つ確認なのですが」と担当者が続けた。「ケアサポート案内への未返答が一定期間続きますと、自動的に次のフェーズに移行する場合がございます。これは、より手厚いサポート体制を構築するための標準的なプロセスです。ご本人の意思に反するものではありません」
次のフェーズ。リンはその言葉を聞いた。
「次のフェーズとは」
「専門チームによる包括的な生活サポートへの移行です。日常の行動パターンの最適化、配分の再査定、必要に応じて居住区の変更などが含まれます。すべて、ご本人のためのプロセスです」
配分の再査定。居住区の変更。
リンの右手が、無意識にペンダントの位置に触れた。鎖骨のやや下。制服の上から、硬い楕円形の感触。
「つまり、①か②を選んだほうがいい、ということですか」
担当者は首を少し傾けた。穏やかな表情のまま。
「そのようにお伝えしているわけではありません。ただ、初期段階でのサポートのほうが、ご負担が少ないことは事実です。私たちは、アマクサさんにとって最も快適な選択をお手伝いしたいと考えています」
最も快適な選択。
リンは窓口の側の人間だ。この言い回しを知っている。来訪者に選択肢を提示するとき、二つの選択肢を並べて、「どちらもあなたのためです」と言う。そしてどちらも選ばなかった場合に何が起きるかを、やわらかい言葉で伝える。脅しではない。情報の提供だ。しかし情報を受け取った側は、どちらかを選ぶことになる。いつもそうだった。窓口に来た人は、最終的にどちらかを選んで帰る。
今、リンがその位置にいた。
「……①をお願いします」
「初回面談ですね。承知しました。日時を調整いたします」
担当者が端末に入力した。リンの名前。案件番号。選択結果。面談の予約。
「本日はお越しいただきありがとうございました。次回は、ご負担のない範囲でお話をお聞きします。何かご不安なことがあれば、いつでもご連絡ください」
リンは頭を下げて、部屋を出た。
一階の廊下を歩いた。足元の光が点いては消える。壁の掲示が流れた。
〈ご相談は、あなたのペースで〉
さっきと同じ言葉が、帰り道にも貼ってあった。
喉の締まりは、面談の間じゅう、ずっとそこにあった。担当者の声がやわらかいほど、締まりは強くなった。怒鳴られたわけではない。脅されたわけでもない。ただ、条件が一つずつ積まれて、最後に残ったのは「①を選ぶ」という結論だった。
リンが自分で選んだ。自分で選んだはずだった。




