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宵の帳 初代の伝え

 これを読むおまえは、私の子か、孫か、それとも私の顔も知らぬ、幾代ものちの子か。誰であれ、これを読んでいるからには、おまえはこの家の当主であり、珠はまだ、おまえの手の内にある。まずそのことに、礼を言う。私の見られなかった宵を、おまえが守ってくれている。


 私は、最初の預かり手である。主がまだ主であられたころ、お傍に仕えた神官の長であった。のちの世がこの戦をどう呼び、主をどう語っているのか、私には知りようがない。だからここには、私がこの目で見たことだけを書き残す。世の語りと食い違うことがあれば、疑うのはこの帳ではなく、世の語りのほうであってほしい。見た者は、私だからである。


 まず、主がいかなる御方であったかを書く。主は、宵の神であられた。日の沈むころ、世を巡られるのが常であった。野良から戻る百姓の肩の荷を軽くし、病人の枕辺に立って熱の苦しみをほどき、行き場を失うてさまよう魂の手を引いて、憩いの場へ導かれる。声は低く、おだやかで、あの声で名を呼ばれると、それだけで一日の疲れがほどけた。兄君の昼が世を励まし、主の宵が世を休ませる。ふたりで一日を回しておられた。私はこの目で、幾百の夕暮れ、そのお姿を見てきた。


 それが、あるときから、変わられた。初めはささいなことだった。お帰りが遅くなった。口数が減られた。宵の巡りから戻られるたび、なにか重いものを引きずってこられるように、お疲れが濃くなっていった。案じて問うても、なんでもない、と笑われるだけだった。


 そして、あの夕暮れが来た。主はただ一人で、私の社に来られた。お顔の色は常と違い、目の奥に、私の知らない暗いものが揺れていた。主は私の手を取り、夜の色をした珠を、ひとつ、握らせられた。そして、こう仰せられた。


 これを、預かってほしい。私はやがて、私でなくなる。この珠には、私が私であったところのものを、封じてある。誰にも知られてはならぬ。人にも、兄上たちにも、どの神にも、だ。私が、私に戻る日まで。


 なぜです、と私は問うた。なにが主をそのようにするのです、と。主は首を振られた。知らぬほうがいい。知らぬことが、そなたらを守る。そう言われて、それきりだった。ただ最後に、一度だけ、昔のままのお顔で笑われた。すまない、と仰せられた。あの声を、私は死ぬまで忘れない。


 その晩を最後に、主は姿を消された。社は空になり、宵の巡りは絶えた。私どもは方々を探し、祈り、待った。だが主は、どこにもおられなかった。


 戦は、それから数月ののち、音もなく始まった。初めは、遠い土地の噂だった。どこそこの谷が夜のまま明けなくなったという。見たこともない夜の獣が出たという。噂は少しずつ近づき、濃くなり、そしてある日、信じられない報せが届いた。主が、父祖たる始原神へ、弓を引かれた、と。私は信じなかった。この社の誰も信じなかった。だが、本当だった。なぜ主が弓を引かれたのか、知る者は誰もいない。人々はただ怯え、世はもう、主を裏切りの神と呼びはじめている。責める気にはなれない。いま世に見えているのは、狂われたあとのお姿だけなのだから。だが私どもが見てきたのは、その前の、幾百の夕暮れのほうなのだ。


 一族のことも書いておく。報せののち、我らは裂けた。同胞の多くは、変わり果てた主のもとへ、闇へ渡った。私の兄弟も、友も、向こうにいる。彼らを憎むな。悼め。だが、決して続くな。


 そして、これがおまえに伝えたいことのすべてだ。よく読んでくれ。主は、変じられる前に、変じられることをご存じだった。だからこそ、あの夕暮れに来られたのだ。最後の正気で主が選ばれたのは、戦支度でも、逃げ支度でもなかった。おのれの心を、私ども人の手に預けることだった。ただ壊すために立った神が、そんなことをするだろうか。世界じゅうが主を裏切り者と呼んでも、この一事だけは、この帳の中に残る。ここが、あの戦の真実の残る、おそらく最後の場所になる。


 言い遺すことは三つ。名を明かすな。我らの姓は主より賜ったものだ。次にあの姓が世に呼ばれるのは、お帰りになった主が、我らをふたたび呼んでくださるときでいい。珠に頼るな。あれは力ではない。預かりものだ。開こうとするな、使おうとするな、ただ守れ。そして、絶やすな。家がどれほど小さくなろうと、どこへ流れようと、この帳と珠と務めを、次の手へ渡せ。渡すかぎり、約束は生きている。


 この戦がいつ果てるのか、私には分からない。主がいつお戻りになるのか、それも分からない。百年ののちか、千年ののちか、あるいはおまえのさらに幾代もあとか。長い預かりになる。だが、考えてもみてくれ。主は、数ある家来のなかから、我らを選ばれた。神々にすら明かせぬものを、人である我らに、預けてくださった。これほどの信を受けた家が、ほかにあるか。誇ってよい。誰にも言えぬ誇りだが、誇ってよいのだ。


 夕暮れには灯をひとつ点し、頭を下げよ。祈りの言葉はいらない。主は、疲れた者が今日も無事に休めることを、なにより喜ばれる御方だった。おまえの家に灯がともり、そこにいる者がよく眠るなら、それがそのまま、お帰りを待つ祈りになる。


 名は記さない。ただ、最初の預かり手として、宵にこれを記す。主の帰る場所は、この珠だ。ならば我らは、帰る場所の番人である。番を、頼んだ。


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