第24話『虚像の影』
赤根菜生のスクリーンショットとSNSアカウントを見た美夏は、しばらく返信できずにいた。
画面の中では、『搾取される弱者男性』というアカウントが、菜生の投稿を引用しながら、彼女を批判し続けていた。その数は、美夏が見ている間にも次から次へと増えていく。しかも、菜生本人の発言とは関係のない話まで持ち出しており、いささか感情的でもあった。
美夏は、菜生にメッセージを送った。
『事務所には相談した?』
すぐに既読がつき、菜生の返信が現れた。
『うん。一応、マネージャーさんには報告した。でも、今は余計な反応をしないでって』
『それがいいと思う。おかしな人も多いから。スクリーンショットは残しておいて』
『そうする。ありがとう、美夏』
短いやり取りだった。それでも、美夏の胸には重いものが残った。
反応しなければ、相手は自分の言い分が正しいと思い込むかもしれない。反応すれば、その言葉尻を拾われて、さらに騒ぎが大きくなる。どちらにしても、消耗するのは菜生の方だ。夕暮れの廃遊園地が、美夏の脳裏に去来する。
美夏はスマートフォンを握り直した。
前の人生でも、似たような光景を何度も見た。誰かが傷つけられているのに、周囲は「反応しない方がいい」「黙っていれば収まる」と言う。正しい対応なのかもしれない。けれど、黙っていることを求められる側だけが、いつまでも傷を抱える。そしてその傷は、人々の間に見えないひずみを残していく。このままではいけない。しかし、だからといって、今の美夏に何ができるわけでもなかった。
胸の奥に小さな不安が広がっていくのを感じる。この騒動は、寿志一人の失言だけで終わるものではない。そう確信し始めたとき、スマートフォンが再び震えた。今度は、事務所からの着信だった。
「……もしもし、星凪です」
『美夏さん、今、お時間よろしいですか』
電話口の担当者は、いつもより慎重な口調だった。
美夏は背筋を伸ばした。
「はい。何かありましたか?」
『寿志監督の件です。ご存じだと思いますが、昨夜の番組での発言が、かなり大きな騒ぎになっています』
「……はい。SNSで見ました」
『制作側からも連絡がありまして、今後の宣伝活動については、いったん様子を見ることになりそうです』
美夏は黙って話を聞いた。
やはり、そうなったか。撮影そのものが中止になるとは言われていない。けれど、宣伝活動が見直されるということは、映画の売り出し方が変わる可能性があるということだ。
『美夏さんには、今後、取材などで今回の件について聞かれることがあるかもしれません。その場合は、ご自身で判断して答えるのではなく、まず事務所に相談してください』
「分かりました」
『それから、SNSでの発信にも注意してください。寿志監督の件に限らず、今は普段の投稿まで切り取られやすい状況ですので』
「……はい」
通話は、そこで終わった。
美夏はスマートフォンを耳から離し、画面を見つめた。
言われたことは、どれも間違っていない。それでも、胸の奥に引っかかるものがある。自分が何かをしたわけではない。寿志が生放送で発言し、それが問題になった。それだけのことだ。なのに、自分まで発言を制限される。主演女優という立場にいる以上、仕方のないことなのかもしれない。誰かが問題を起こしたとき、その人間だけを切り離せるとは限らない。周囲にいる人間も、所属している組織も、関係している作品も、一緒に評価されてしまう。そして、そうなったときに守られるのは、必ずしも個人ではない。作品の価値かもしれない。会社の利益かもしれない。あるいは、これまで積み上げてきた看板かもしれない。
美夏は、天導隆一の顔を思い浮かべた。
こんなとき、彼ならどう動くのだろうか。
◇
その頃、天導隆一は、事務所のデスクで複数の資料に目を通していた。
テレビ局の関係者から届いた連絡。映画の制作側からの報告。宣伝スケジュールの確認事項。どれも、表向きはまだ大きな変更を示していない。だが、文章の端々に、慎重さがにじんでいた。
寿志清純の発言は、単なる一過性の騒ぎでは終わらないかもしれない。
問題なのは、発言そのものだけではなかった。本人が、それを失言だと認識していないことだ。あのような人間は、同じことを繰り返す可能性が高い。周囲が謝罪や説明を求めても、本人が納得していなければ、かえって事態を悪化させることもある。天導は、手元の資料を閉じた。
「面倒なことになったな」
独り言のようにつぶやく。
寿志は、これまで映画監督として一定の実績を積んできた。制作側にとっても、彼を起用する理由はあったのだろう。
しかし、実績があることと、今後も安心して起用できることは別だ。
広告主が難色を示せば、宣伝計画は変わる。テレビ局が出演を見合わせれば、露出の機会は減る。映画の話題性が監督の失言に奪われれば、作品そのものにも影響する。
そして、その映画の主演女優は星凪美夏だった。
天導は、美夏のプロフィールを手に取った。
彼女を売り出すうえで、今回の映画は重要な足がかりになるはずだった。ところが、監督の騒動によって、主演女優の名前まで同じ話題の中に置かれかねない。美夏が何も発言しなくても、周囲が勝手に意味を与える可能性はある。監督を批判すれば、撮影現場との関係を問題視されるかもしれない。監督を擁護すれば、問題発言に同調したと受け取られるかもしれない。
天導は、そうした反応が起こる可能性を冷静に計算していた。
美夏本人の感情は、判断材料の一つにすぎない。
今、必要なのは、彼女を騒動の中心から遠ざけること。そして、映画の価値がどこにあるのかを、周囲に改めて認識させることだった。
天導は、制作側の担当者に電話をかけた。
「星凪美夏の今後の扱いについて、少し相談したい」
『美夏さんの、ですか?』
「そうだ。監督の発言と、主演女優の評価は分けて考えるべきだろう」
電話の向こうで、相手が慎重に言葉を選ぶ気配があった。
『もちろん、その点は理解しています。ただ、現状では、どうしても一緒に取り上げられる可能性がありまして……』
「だからこそ、こちらから整理する必要がある。作品の話をするなら作品の話をする。監督個人の問題と混同させない。それだけのことだ」
『……分かりました。社内でも検討します』
天導は、相手が即答を避けたことを気に留めた。
理解はしている。だが、実際にどこまで動くつもりなのかは分からない。
世間の反応が大きくなれば、理屈だけでは通らなくなる。誰もが損失を避けようとし、責任を押しつけられそうな場所から距離を取る。
そのとき、美夏がどの位置に置かれるか。
それを決めるのは、彼女の努力や演技力ではないだろう。
天導は通話を終え、椅子の背もたれに身体を預けた。
寿志が自分の立場を理解していないのは、むしろ好都合かもしれない。本人が騒ぎを収めようと動けば、かえって余計な発言をする危険がある。周囲が彼を制御できないと判断すれば、映画の宣伝から距離を置こうとする動きも出てくるだろう。
寿志が失脚するかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも今までと同じ形で映画を売り出せるとは限らなくなった。
ならば、先に手を打つべきだ。
天導は、別の担当者を呼び出すため、内線に手を伸ばした。
◇
Dream Gateの事務所の廊下を歩く美夏の向こうに、見覚えのある女性の姿が見えた。アイドルグループVANTAの姫野亜衣璃。美夏たちWhite Noiseより先にデビューした、同じ事務所の先輩アイドルだった。
すれ違う距離まで近づいたところで、美夏は軽く頭を下げた。
「おはようございます、姫野さん」
普段どおりの挨拶だった。これまでは、顔を合わせればごく普通に挨拶を交わしていた。頻繁に顔を合わせることはないし、特別親しいわけでもないが、少なくとも無視されるような関係ではなかったはずだ。
しかし、亜衣璃は美夏を一瞥しただけで、挨拶を返そうはしなかった。
彼女の顔に浮かんでいるのは、隠そうともしない不快そうな表情。まるで、廊下に落ちていたゴミでも見つけたかのように眉をひそめると、何も言わずに視線をそらし、そのまま通り過ぎていった。
──え?
思わず振り返ったが、亜衣璃は足を止める気配もなかった。
美夏は小さく首を傾げる。何か気に障ることをしただろうか。最近、仕事で顔を合わせた記憶もない。そもそも、まともに話す機会すらほとんどなかったはずだ。それなのに、あの露骨な態度は何なのだろう。
美夏は遠ざかる亜衣璃の背中を見つめていたが、何事もなかったように前を向いた。
考えても答えは出ない。今は、自分の仕事に集中するしかなかった。




