第5話『再会(前編)』【2】
「……今だ」
律は美夏の手を握る。美夏は抵抗しなかった。律はドアノブに手をかけ、言う。
「運転手さん、この先で降ろしてください。マネージャーさん、僕たちはここで降ります」
「分かりました。帰宅したら連絡してください」
「はい」
タクシーは交差点を曲がった先で減速した。
美夏は何が起きているのか分からないまま、律に続いて夜の街に降り立った。
目の前には、全面ガラス張りの巨大な吹き抜け空間が広がっていた。
夜空へ伸びるエスカレーター。幾何学模様に組まれた鉄骨。天井から幾筋もの光が滝のように降り注ぐアトリウム。人影はまばらだが、その幻想的な光景だけは、都会の喧騒から切り離された別世界のようだった。
律は周囲を一度だけ見渡し、小さく息を吐く。
「ここなら少しだけ時間が稼げる」
そう言うと、律はサマージャケットの内ポケットにそっと手を入れた。そして黒いUSBメモリを取り出した。キャップには傷がつき、メーカーのロゴも擦れて薄くなっている。どこにでも売っていそうな、何の変哲もない記録媒体。
律は美夏の手を取ると、USBメモリを握らせた。
「これを預かってほしい」
「え……?」
「父が残した取材データだ。誰にも見せるな」
律の声は落ち着いていた。
だが、その落ち着きがかえって不自然だった。
夜のガラス張りの空間は美しい。吹き抜けの天井から降り注ぐ光は幻想的で、恋人たちは写真を撮り、買い物帰りの人々は足を止めることなく通り過ぎていく。誰も、自分たちを見ていない。それなのに、美夏には周囲のすべてが敵に思えてくる。
心臓が早鐘を打つ。美夏は知っている。月城律の父・智明は著名なフリージャーナリストだった。しかし七年前に不慮の事故で亡くなったと報じられていた。
律は美夏の顔をまっすぐ見ながら言葉を続ける。
「父は死ぬ直前まで、ある件を追っていた。警察は父の死を事故だと言った。でも、俺はそうは思っていない」
美夏には何も言えなかった。今の律の顔には、テレビで見せる王子様キャラの面影はなかった。あるのは静かな確信だけ。
「もし俺の考えが間違っていなければ、追跡者の目的はこのデータだ。コレを表に出したくない連中に監視されている」
「どういうことですか?」
「このデータは父の遺品の中にはなかった。最近になって発見されたんだ。たぶん誰かが……父を殺した犯人が、父から奪ったんだろうね。追跡者が現れたのは、これを受け取ったすぐ後のことだ」
「そんな重要な物なら、私じゃなくて──」
「重要な物だから、君なんだ」
律は美夏の言葉を遮った。
「信じられるのは君だけだ」
美夏はてのひらの中にあるUSBメモリを握った。
小さく、軽い。なのに、とてつもなく重く感じる。
「……どうして私を信じるんですか?」
律は少しだけ笑った。
テレビで見せる営業用の笑顔ではない。
どこか疲れたような、力の抜けた笑みだった。
「信じたいから、だよ」
律の返事はそれだけだった。美夏の胸が熱くなる。こんな大切な物を、彼は自分に託そうとしている。彼の気持ちに応えたいと思った。美夏は穏やかに微笑んだ。
「……分かりました。預かります」
「ありがとう」
その「ありがとう」が、美夏には何故か別れの挨拶のように聞こえた。
嫌な胸騒ぎを覚え、美夏は律に確認する。
「でも、これ……預かるだけでいいんですよね?」
「もちろんだ。全部終わったら、受け取りに来るよ」
全部終わったら──その言葉の意味を、美夏は深く考えなかった。
このUSBメモリが原因で命を落とすことになるなど、このときの美夏は夢にも思わなかった。
……音楽番組の収録スタジオを歩きながら、美夏は目だけを動かして律の姿を探す。
未来はすでに変わり始めている。No.404の小説は映画化が決まり、舞白には説明のつかない違和感が生まれている。自分の知る歴史は、少しずつ別の形へと枝分かれしている。美夏の胸がざわつく。
──もしも今日、会えなかったら。
今生では、律と自分の運命が交わることはないのかも知れない。
そんな不安を抱えたまま歩く美夏の前で、出演者ラウンジの扉が開いた。




