では、わたしは?
己の手を握ったのは恰幅のよい男だった。口髭を長く蓄え、日に焼けた顔には小皺が深く刻まれていた。
「なるほど、定陶の美人よな。寡人のそばに置いて惜しくはあるまい」
朗々とした声に続いて豪放な笑い声が広がった。禾児はびくりと身をすくめた。馬車の前には護衛の兵が居並んでいた。だが、その声から戚喜が受けた印象は威厳ある王ではなかった。それよりむしろどこか田舎の市場で出くわしそうな土の匂いの濃く漂う近所のおじさんのようだった。口髭も小皺も日に焼けた顔の色も何もかもがそちらに近かった。
頭の中に思い描いていた漢王の姿――冕冠をかぶり、威厳をもって座しているというある抽象的な像――とはあまりにかけ離れていた。その像と、今まさに己の手をむんずと握っているこの男の姿とはどうにも重ならなかった。呆然と見上げると男は再び笑った。
「寡人が漢王劉邦である。荘園へよく参った」
戚喜はそこでようやく我に返った。自分の手がまだ男の手に握られていることに気づき、慌てて手を引いて一歩退いた。足が最後の踏み台を越え、地を踏んだ。戚喜は深々と拝礼した。
「戚の姓に喜と申します。大王、万寿無疆にあられませ」
漢王劉邦――?
深く垂れた頭の中で一冊の本がぱらぱらとめくられた。前世の小学生のころ。学校の図書館の片隅に挿してあった黄ばんだ表紙の学習まんがの一揃い。表紙には一人の男が剣を振るい、別の男と斬り結ぶ絵が描かれていた。
漫画の題は『楚漢志』だった。
学習まんがの頁が戚喜の頭の中で一枚また一枚とめくられていった。沛県の亭長あがりの劉邦。項羽の分封によって漢中の王となった劉邦。項羽と天下を争い、ついに天下を手中に収めた劉邦。漢王朝の最初の皇帝、漢の高祖、劉邦。
あの漢の高祖劉邦? 漢を打ち立てた? のちに天下を手中に収める? 今この目の前で口髭を垂らして豪快に笑っているこの近所のおじさんのような男が……あの漢の高祖劉邦だというのか?
では、わたしは?
背筋を寒気がつたって下りていった。頭から冷水を浴びせられたようだった。
漢の高祖劉邦の側室、戚の姓の……戚夫人?
頭の中の学習まんががもう一枚めくられた。劉邦の死後呂后によって「人彘」にされた戚夫人。手足を断たれ胴体だけとなって厠の下の豚小屋に置かれた戚夫人。それを見下ろして嘲笑う呂后の絵が目に焼きついていた。
前世の記憶がまた蘇った。今度は中学の歴史教師の声だった。心地よい春の日に居眠りする生徒たちを起こそうとして語ってくれた話だった。
「戚夫人は息子を皇太子に立てようとして失敗した。だから皇帝が死んで守ってくれる者がいなくなると呂后によってむごたらしい最期を遂げることになる。呂后は戚夫人の手足を切り、両の目をえぐり、耳を削ぎ落とし、舌を焼いて口をきけなくしたうえで豚小屋に放り込んだ。(このとき生徒たちがうわっと声をあげた)残酷だろう? 呂后はあろうことか自分の息子恵帝にその様をわざと見せつけた。恵帝はその姿に衝撃を受けてふさぎ込んで病みつき、若くして亡くなったという」
戚喜――わたしが転生したこの体こそがほかでもないあの戚夫人なのだ。
脚から一瞬にして力が抜けた。
戚喜の体がぐらりとよろめいた。禾児が慌てて駆け寄り、抱き支えた。劉邦はその様子を見てまたも笑い声を弾けさせた。
「はは、寡人がそれほど恐ろしいか」
男の笑いには悪意がなかった。戚喜は急いで姿勢を整えた。
「大王の御威光に驚き、つい……」
「よい、よい。幾日も馬車に揺られてきたのだ、脚も強張っていよう。中へ入ろう」
男は戚喜の肩を軽く叩いた。その手つきはあまりに自然で、屈託がなかった。
劉邦は戚喜の手を握ったまま歩き出した。戚喜は引かれるように劉邦に従った。歩を進める間にも学習まんが『楚漢志』の頁はぱらぱらとめくられ続けた。ある頁では劉邦が笑っており、ある頁では呂后が毒々しく睨みつけており、ある頁では屍が山のように積み上がっていた。
生き延びねばならない。この時代に落ちたのなら生きるよりほかにない。
もう一度繰り返した。
***
戚喜は蓋頭をかぶったまま奥の間に座していた。
紅の絹の蓋頭越しに部屋の中の景色がぼんやりと透けて見えた。新たにしつらえられた奥の間。寝台に敷かれた真新しい絹の夜具。片側の壁に整然と並べられた嫁入り道具の箱の数々。何もかもが新しく、何もかもが自分のために用意されたものでありながら何もかもがよそよそしかった。
宴の賑わいが遠くから聞こえてきた。男たちの笑い声、杯のぶつかり合う音、楽人たちの奏でる音が一つに混じり合って流れ込んでくる。漢王が新たな側室を迎える席だった。戚喜はその席には出ていない。新妻は床入りの前まで蓋頭をかぶって奥の間に座し、おのが夫を待たねばならなかった。
戚喜は膝の上で両手を重ね、座していた。手がまた冷たくなった。蓋頭の内の空気は次第に蒸し暑くなっていったが、指先の冷たさは引かなかった。
戸の外に人の気配がした。禾児が立ち上がり、戸を開けた。きちんとした身なりに髪をきれいに梳き上げた女が立っていた。年の頃は戚喜より二つ三つ上に見えた。禾児が一歩脇へ退くとその侍女は部屋へ入ってきて戚喜の前で深々と拝礼した。
「綵瑩と申します。大王が夫人にお仕えするようにと遣わされました」
声は落ち着いていた。震えがなく、無駄がなかった。拝礼の所作もきびきびと整っていた。戚喜は蓋頭越しにその侍女の姿をじっと見てから口を開いた。
「これからよろしく頼みます」
綵瑩はもう一度拝礼すると片隅へ退いて座を占めた。禾児は自分の場所へ戻ろうとして綵瑩との間合いを一度測り、もう少し下がった。綵瑩はそのぎこちなさにこれといった素振りを見せなかった。禾児の場所を侵すでもなく、禾児を自分より下に見るでもなかった。
戚喜はその一部始終を蓋頭越しに眺めていた。
聡い娘だ。漢王が自分に遣わした侍女がどういう人間かたちどころに見当がついた。ただ世話をするためだけの侍女ではない。この地の事情に通じ、後宮の位階と掟に長け、自分を助けてくれる侍女だった。
同時にそれは監視の目がついたということでもあった。戚家にさしたる勢力はないとはいえともあれ定陶の豪族である。戚喜が下手な真似をすればこの侍女は漢王に告げるだろう。そして戚喜と戚家は窮地に陥る――そんな直感がした。
戚喜は蓋頭の内で短くため息をついた。
気を緩められるところがどこにもない。
宴の音が遠くでまた一段と高く沸き上がった。男たちの笑いが長く尾を引き、やがて静まった。戚喜の頭の中ではその笑いがしきりに漢王の顔と重なった。口髭を長く垂らし、日に焼けた豪放な近所のおじさんのような男。漢の高祖劉邦。
そして、わたし。漢の高祖劉邦の後宮の戚夫人。
その事実が再び頭の中に満ちてくると蓋頭の内の空気はいっそう蒸し暑くなった。戚喜は膝の上の両手をじっと見下ろした。
これからどうすればいい。頭が忙しなく回り始めた。
劉邦の子を産む。その子を皇太子に立てようとして失敗する。劉邦の死後自分を守ってくれる者がいなくなると呂后の手で人彘にされる。手足を切られ、両の目をえぐられ、耳を削がれ、舌を焼かれたまま豚小屋へ放り込まれる。
それだけは避けねばならなかった。
そのためにはどうすればいい?
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