結局こうなるのか
定陶の春は遅かった。始皇帝が崩じ、世情の落ち着かぬ歳月にあって春の訪れる足取りもどこか鈍く重かった。戚家の中庭に差す陽光にはまだ冬の白さが一筋残っていた。
中庭の真ん中に絹をめぐらせた馬車が一台停まっていた。漢王の荘園がある沛県までこれに乗っていくことになっていた。その傍らで侍女と荷運びの者が幾人か出立の支度を整えていた。
戚喜は婚礼の装いで中庭の片隅に立っていた。定陶で腕がよいと評判のお針子と、子をあまた産んだ女たちが寄り集まって仕立てた衣である。新妻の幸せと長寿と多産を祈る刺繍が隙間なくびっしりと施されていた。
中庭には一族の者が皆出ていた。母は戚喜の手を二度三度握っては放した。父はその傍らで何も言わなかった。戚家の娘――歌舞に長け、容色に秀でて近隣に名高い娘が漢王の側室として嫁ぐという噂に、あたり一帯はしばらく沸き立っていた。だが、いざ送り出すその場には賑やかな気配はなかった。
戚喜は母の手をもう一度握り返すと一歩退いた。
「母上。漢王の側室と申せば天下にそうそうない座ではありませんか。わたくしのことはご案じなさらずどうかお身体を大切に」
戚喜はことさら軽い調子で言った。母が一拍遅れてうなずいた。父がんん、と咳払いをしてひと言を添えた。
「達者で暮らせ」
戚喜は深く拝礼した。従兄の戚滉が馬車に乗り込む戚喜の手を取ってくれた。一人娘の戚喜にとっては実の兄も同然の人物だった。その兄の顔が硬く強張っているのを見て戚喜は口を開いた。
「兄上、おっしゃりたいことがあればどうぞ。馬車が出てしまえばもう伺うこともできませんもの」
戚滉は口ごもり、ふう、と深い息をついた。
「……喜」
語尾がふつりと途切れた。戚喜は黙って待った。戚滉は手を一度握りしめ、また開いてから再び口を開いた。
「漢王は四十を超えていると聞いた。お前より三十は年上だ」
「ええ、そうでしょうね」
「お前が行く先が……」
戚滉の言葉がまたも途切れた。戚喜には従兄が何を言いたがっているのかわかる気がした。可愛がってきた従妹が三十も年上の男の側室として入る――それが案じられてならないのだ。
戚喜は馬車の踏み台に立ったまま兄の手をしっかりと握って微笑んだ。
「滉兄上。父上がこの娘のために選んでくださった縁談です。どうして疑われましょう。まして漢王ともあろうお方なら戚家の一族にとって誉れではありませんか」
戚滉は戚喜の顔をしばらく見つめた。従妹の真意を読み取ろうとする眼差しだった。戚喜は穏やかな笑みを口元に湛えたまま兄の手を握る手にいっそう力を込めた。やがて戚滉はうなずいた。
「……助けが要るときはいつでもこの兄に文を寄こしなさい」
「ありがとうございます、兄上」
戚喜は頭を下げて礼をした。重い婚礼衣装の裾を整えながら馬車に腰を下ろす。座には、ふっくらとした絹の褥が敷かれていた。生家が一人娘に施す最後の贅沢だった
帳が下ろされた。侍女が席に着き、荷運びの者たちが馬車の後ろにつき、御者が馬の手綱を一度握り直した。馬車は揺れながら動き出した。
戚喜は帳の隙間から中庭を見やった。母が馬車を数歩追ってきて立ち止まった。父がその傍らで母の肩に手を置いた。戚滉は一歩離れたところに立ち、馬車が遠ざかっていくのをじっと見ていた。
戚家の中庭が遠ざかっていく。庭の井戸も井戸のかたわらの梅の木も枝に散り残った枯れた花までも一度に。幼い頃戚滉の背に負われ、梅の木の下で蝉を捕った記憶が浮かんだ。
馬車は定陶の街並みを抜けていった。戚喜は帳から視線を戻し、姿勢を正して座った。馬車が砂利道から土の道へと入ったのか車輪の転がる振動がいっそう柔らかくなった。馬の蹄の音と車輪の音とが一拍ずつずれながら戚喜の身を揺らした。
戚喜は短く息を吐いた。
結局こうなるのか。
五つのとき前世が目覚めたあの瞬間を今もはっきりと覚えていた。戚家の中庭の真ん中で、陽射しがじりじりと照りつける真昼に、蝉の声が喧しく鳴き立てる中で、不意に頭の中がぱっと明るくなった。明るくなった頭の中に一人の人間の生がありありと刻まれていた。二十一世紀。どこにでもある中小企業の事務職員、勤続四年目。ある晩残業を終えて会社を出た道で――そこから記憶は途切れていた。だが、途切れたその先で再び始まった場所がこの五つの幼い体であることは確かだった。
初めのうちはその事実の重みに押し潰され、幾日か病みついた。父が医者を呼んで脈を診させた。その数日を耐え抜いてから戚喜は一つのことを受け入れた。憑依であれ、転生であれ、時を遡る旅であれ、この世界に落ちてしまった以上どうしようもない。生きねばならぬのならこの体で生きるよりほかにない。
その先はいかにして生き延びるかという問題だった。
幸い、戚家は一人娘をこの上なく慈しんだ。父が自ら「喜び」を意味する名を付けてやるほどだった。戚喜が時折おかしな歌を口ずさんでも、見たこともない所作で舞を作り出しても、父はただ聡いと言って可愛がってくれた。母は娘の髪を梳く役目をほかの侍女に任せようとしなかった。従兄の戚滉は従妹が庭で泥遊びをする傍らに来てはともに泥にまみれてくれた。
娘が歌舞に素質があるのを見て取り、父は師を招いて音楽と舞を学ばせた。戚喜はほどなく定陶一帯に歌舞の名を轟かせた。学問も怠らなかった。たいした学識を積むほどではないにせよ歌を学び、自ら作れる程度には身につけた。戚喜は自分がその数々の厚意をどう返すべきか常々考えていた。一人娘として両親の意に背かず、従兄の重荷とならず、戚家に累を及ぼさぬよう。
その結果が漢王の側室であった。
戚喜はもう一度ため息をついた。現代人としては到底納得しがたいことだった。十八の歳で五十に手の届くおじさんの側室として入るなど。だが、この時代の人間としてはいたしかたないとわかっていた。この座を拒んだところでより良い結果があるとも思えなかった。
漢王か。戚喜はその男の名も人となりも顔かたちも知らなかった。知っていることといえば年の頃と彼が漢王であるという事実の二つきりだった。
漢王という言葉をもう一度頭の中で転がしてみた。秦末の騒然とした時期天下に王を自称する者は一人や二人ではなかった。項羽が分封した諸侯王だけでも十を超え、そのうちの一人がこの漢王だった。漢中と巴蜀一帯の王。その人の側室。
戚喜は気を引き締めた。嬉しくてたまらないというほどではないにせよこれより悪くもなりえたのだとわかっていた。飢えて死に、刃に斬られて死に、非業の死を遂げる者であふれた時代にたかが年嵩の男の側室になるくらいで嘆くのも笑止なことだった。
どうかわが夫となる男が善き人であってほしい。せめて側室の髪をつかんで振り回すような無道な者でだけはありませんように。それで十分だった。愛だの情だのといったものは初めから念頭に置いていなかった。
馬車はしばらく揺れ続けた。戚喜は帳の内のほの暗い空気の中で膝の上に置いた自分の両手をじっと見下ろした。手が冷たかった。手のひらにうっすらと汗がにじんでいた。婚礼衣装の裾になすりつけて拭いながら繰り返した。
どうせこの時代に落ちたのなら生きるよりほかにない。
沛県の漢王の荘園までは半月を要した。着いたという御者の短い叫びが帳の外から聞こえた。帳が捲られ、禾児が馬車の中へ慌ただしく身を入れてきた。
「お嬢様、漢王が……。漢王がじきじきにお出迎えに出ておられるとのことにございます」
禾児の声は震えていた。戚喜は妹を見るように禾児の顔を覗き込んだ。定陶で幼い頃から共に育った侍女である。戚喜より二つ三つ年下で、ふだんはしっかり者だったが、気の弱いところがあった。
「どうしてお前が震えるの。わたくしだって震えていないのに」
戚喜は禾児の頬を軽くつまんで笑った。禾児が半ば開いた口でぎこちなく笑い返した。戚喜は禾児の手を一度短く握って放した。
「漢王とて人であることに変わりはないわ。頭が二つある男ではあるまいし」
「お嬢様……」
「降りなければ。髪をもう一度整えてくれる?」
禾児が乱れた髪を梳き、簪を挿し直してくれた。戚喜はその間に婚礼衣装の裾を整えた。降りる間際髪に挿した簪に手をやった。指先が冷たかった。胸の奥がひやりとした。だが、それを面に出さず、口の端を引き上げた。
禾児が帳を片側へ捲り上げた。陽射しが一度に馬車の中へと注ぎ込んだ。戚喜は一度まばたきをして馬車の踏み台へ足を下ろした。
踏み台を一段下り、また一段下りた。
最後の一段を踏む間際誰かの手が戚喜の手をむんずと握った。
戚喜は驚いて視線を上げた。
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