その百五:海賊船の記憶
あの日、僕の乗っていた旅客船リュデア号は、海賊の襲撃をうけた。
じっさいには、何人もの海賊が一年以上も前から船員として旅客船会社に雇われ、リュデア号で働いていた。そしていよいよ船を襲うという日の前日、船で提供される夕食の飲み物や食事に睡眠薬を仕込み、船長や乗員乗客全員を深く眠らせ、真夜中の間に船を制圧したのである。
翌朝、僕らは完全に乗っ取られた旅客船の食堂へ集められた。そこで若い女性九人、十歳以上の子ども達十四人、そして僕が人質として海賊に連れ去られたのだ。
僕らは海賊船に乗せられた。
あの善人面した海賊船長と、素知らぬ顔で船員になりすましていた男たち。
船長室に運び込まれた五つの大きな木箱。僕らは立派な作り付けの戸棚の前へ、並ばされたんだ。
「よーし、開けろ」
海賊船長の命令で開けられた木箱には、子どもが入れそうな麻袋が三つ。海賊どもが乗客の船室や貨物室から盗んできた乗客の貴重品だ。
ダイヤモンドや真珠やエメラルドを無造作に袋へ戻した海賊船長は、指先に巻き付けたネックレスの、雫型のルビーを揺らしながら、笑った。
「すばらしい! なあ、みんな、俺の睨んだ通りだろう。境海を渡る金持ちは、特に世界を渡って移住するやつらは、財産のほとんどを宝石に変えて持って行く。こっちの世界は平和だと思っていやがる惚けたやろうばかりだってことだ」
子ども達と後ろに並ぶ女性たちがすすり泣く。海賊船長の手から大きなサファイヤの指輪がこぼれ落ちた。忘れもしない、マルセノ親方からおかみさんへの、結婚記念日の贈り物だった指輪――。
ほら、そこに、あのときの僕がいる。血の気の失せた白い顔で、涙を流して……。
え? 僕も、泣いていたのか? 必死で泣くのをこらえていたつもりだったのに……。
「やっぱり、僕も怖かったんだな……」
「海賊に脅迫されたんだ、怖いに決まってるさ。ニザくん、だいじょうぶかい?」
トニオさんの声で我に返った。
「すいません。あそこにあのときの僕がいるので、ついじっと見てしまって……」
海賊は略奪品を前に大声で笑い、お互いを褒め称えあっている。この略奪品で、仲間みんなが金持ちになると喜んでいる。
「つらければ見なくてもいいんじゃないか。この光景が終わったら声を掛けるよ」
「いえ、つらくはありません。おかみさんが見るものを僕も見とどけたいので」
おかみさんは僕らの前に背を向けて立っていた。その肩がかすかに震えている。
海賊どもは大きな声で言った。
「俺たちには幸運がついていますぜ!」
「北方海の女神に感謝を!」
「俺たちは境海一、強運の船乗りってわけだ」
胸の奥で、あのときの僕が感じたイヤな感覚がほんのわずかだが呼び起こされた。
僕は何も言えず、なにもできなかった。あれほどひどいヤツらに対して怒ることができない弱い人間だと、自分が情けなくて、みじめだった。
海賊船長は僕らに向かって人質のルールを説明し、海賊船が海賊の国〈赤い冠島〉へ向かっていることを告げた。
「お前達は身代金が届くまでは大切な金づるだ。海賊の城で最低限のもてなしはしてやる。だが、今日から数えて一年の間に身代金を持った迎えが来なければ、奴隷制度のある領海で売りとばす。それをよく覚えておけ」
この脅迫は、いまも忘れられない。
「なんてひどいことを……」
トニオさんは顔をしかめたが、僕は冷静に聞いていた。
そんな自分に驚いた。――でも、すぐに、自分の状態が理解できた。
ここは過去だ。
すべては僕の記憶の中で古びた風景、思い出の景色のひとかけらにすぎない。
そこにはかつて耐えがたい痛みがあった。
けれど、すでに終わったこと。僕の中で整理され、いまは数えきれない記憶の保管庫の奥の奥へ、片付けられた。
そこにきちんと収まっているということは、そのものは脅威としての力を失って安全であり、たとえ取り出して見返す用があろうと、もう僕にダメージを与えるような生々しい痛みは伴わない、ということだ。
そうして僕らは船長室から追い出されて――……。
海賊の船長室の、豪華な明るい室内が、かき消すように失われた。
僕らはもとの夜の浜辺にいた。
おかみさんの呟きが聞こえた。
「それほど幸運が自慢か」
フードが後ろへ落とされた。
三つ編みにされていた栗色の髪が背中にすべり落ち、月光を受け銀色に艶光る。
「すべてが幸運のなせるわざだと? では、その自慢の幸運をすべて剥ぎ取ってやろう」
おかみさんが右手を振り上げた。
その指先に月光めいた丸い光がともった。




