その百四:〈赤い冠島〉の記憶
「――古い魔法……。あの島で、なにかの魔法が使われた……?」
おかみさんは島を見つめてつぶやいた。
ボルティ船長は操舵輪を固定して、船室の入り口に立つマルセノ親方にちかづいた。
「マルセノ親方、ご子息の捜索は僕らもお手伝いしますよ。船室に〈赤い冠島〉について調べた資料がありますから、もういちど今後の作戦を検討しませんか?」
「ああ、すまんな船長、ありがとう。おーい、ソフィア。仕切り直そうや」
マルセノ親方に呼ばれても、おかみさんは船室の方へ来ない。
「あれはなにかしら? 魔法の痕跡? 大きな魔術が破壊された跡?――……ボルティ船長、ここには魔法の伝説があったと言っていたわね」
「ええ。近づく船が難破するという魔法の嵐の伝説が。島には古い呪いがかけられているとか。そんな話ならいくつもありますよ」
ここまで島へ接近しても海は凪いでいる。一滴の雨も降ってこない。あれはやはり海賊が島を護るために流したデタラメだったのだ――とボルティ船長は思っていた。
おかみさんは右手の人差し指と中指を揃えて唇に当てた。
――ピゥーイ――……
甲高い口笛の音に誘われたように、青い小鳥たちが空中にふたたび出現した。
「わッ!?」
マルセノ親方はイヤなものでも見たように、あとずさった。
青い小鳥たちは降下しておかみさんの頭上をグルッと回り、さらに降下して、おかみさんの体の周囲をクルクル回った。
「おい、どうする気だい?」
「まだるっこしいことを言ってられないわ。じかに触って調べてくるだけよ」
青い小鳥たちのつむじ風はワッと大きく成長して、おかみさんの姿はそのなかに隠され、天空へと舞い上がった。そして――……。
「消えた」
皆は呆然と、青いつむじ風がふっと消えた虚空を見つめた。
「一足先に〈赤い冠島〉へ行ったのさ」
マルセノ親方が笑った。
「ここが赤い冠島だって!?」
トニオさんはキョロキョロした。
「ということは、ニザくんの記憶か? 同じ夢を見ているとか?……それも変だな。ニザくんの魔法か? なんで俺まで巻き込まれたんだろう?」
トニオさんは独り言のようにブツブツと言っている。
「いいえ、僕は魔法は使ってません。というか、本当に使えないんですけど……」
「るっぷりい!」
シャーキスが僕の頭の上に、ぽふんと乗っかった。
「ほら、とうとうこんなところに来ちゃったのです! ご主人さまがとーっても強く思い出したから、トニオさんまでいっしょに来てしまいました! ぷう!」
「なんだ、やっぱりニザくんのせいじゃないか!」
「すみません。でも、僕にも理由はわかりません。ここが〈赤い冠島〉ということくらいしか……」
夜の海岸。
北の入り江だ。
あの島での最後の日、僕が魔法の船〈海の奇跡号〉に乗った場所だ。
右の視界の右端でなにかが動いた。
僕はギクッと体を硬直させた。
暗い夜の砂浜を、人影が歩いている。
「ニザくん、誰かいるぞ」
人らしきシルエットは、ゆっくりと、一歩一歩、砂を踏みしめるようにやって来る。
大きな頭部に直線的な体つき。おそらくフード付きマントを被った人だ。
さっと景色が明るくなった。
月を覆っていた雲が晴れたのだ。
真昼のように明るい月光の下、その人のマントが淡いオレンジ色だと見分けられるほど近づいた。
「あれは……?」
頭に被った大きなフード。マントのあちこちが銀色にキラキラ光っている。銀緑の糸で細かい刺繍が施されているんだ。
「お、あのマント、きっと魔法使いだ。彼らはよく自分だけの紋章入りのマントを身に着けるんだよ」
トニオさんの言葉に、僕の心臓は緊張で大きく鼓動した。
僕はあのマントを知っている!
「うん? ニザくん、どうした?」
「フードで顔は見えないけど、あれはおかみさんです。旅客船で最後に別れた日、あれと同じマントを着てました」
「え、あれが!?」
トニオさんと僕がいる場所から十メートルほど先で、おかみさんは立ち止まった。
フードに隠された頭部が、ゆっくりと左右に動いた。あたりを見回している。
けれどその視線は僕らに留まらない。まるで僕らの存在が見えないみたいに……。
トニオさんもそれに気づいた。
「ニザくん。どうやら僕らは、あのご夫人には見えないみたいだな」
「ええ、やっぱりここは、現実ではないようですね」
トニオさんと僕はふつうの声で会話しているのに、その声もおかみさんには聞こえないのだ。
フードが少しずらされ、顔があらわになった。栗色の長い髪は三つ編みにされ、太い綱のように頭に巻き付けられている。いつも優しい微笑みをたやさない穏やかなおかみさんは、厳しい表情で内陸の方の森を睨んだ。
「おかみさんだ!」
僕の視界は涙でにじんだ。
「ここにニザはいない……」
おかみさんは悲痛な声でうめくように言った。
「でも、あの子が生きているのがわかるわ。不思議だこと。ここに立っていると、まるであの子が近くにいるみたいに、存在を感じるなんて……」
僕とトニオさんは顔を見合わせた。
「僕を探してるんだ!」
おかみさんは僕を探しに〈赤い冠島〉へ来たんだ!
僕はうれしくて涙があふれた!
「おかみさん! 僕はここにいるのに――!?」
呼べど叫べど、おかみさんは反応しない。
僕らにはおかみさんが見えるし声も聞こえるけど、僕らの姿も声も、おかみさんには届かないんだ。
トニオさんが空を見上げた。
「満月だ。でも――僕らが見ているこの景色は、ほんとうに、今夜の景色なのかな?」
「トニオさん? どういう意味ですか?」
月の色がさまざまなのは、僕も知っている。
満月ならば黄金色の真円になると思い込みがちだが、それは詩的な月のイメージだ。
月が反射する光の色は、季節や月の高度によっても異なるのである。
「あの月の色だが、薄い青色だと思わないか? 月の色は季節によって違うんだ。夏は青味を帯びているし、冬が近くなると赤みが強くなるんだ」
満月ならば黄金色の真円になると思い込みがちだが、それは詩的な月のイメージだ。
月が反射する光の色は、季節や月の高度によっても異なるのである。
「ヴェネチアーナ共和国の月はもっとオレンジ色に近かった。ここは夏が終わって、秋になったころじゃないかな」
トニオさんの目はたしかだ。
ヴェネチアーナ共和国では、船乗りは月の運行や星座についての知識は必須だそうだ。
船の針路を決めるのは、いまは航海図と羅針盤だけど、昔は夜、月と星座の位置から船のいる位置を計算したという。
ついさっきまでヴェネチアーナ共和国で見ていた月は、もっと暖色系だった。レモン色に近い淡いオレンジ色――たしかに、あのおかみさんのマントにも似た色だった。
「つまり、去年の秋頃か。……ということは、ここは過去の世界? 僕が脱出した後くらいかな」
「きみが脱出したのは秋分の日だったね。ここが秋なら、ちょうど入れ違いになってしまったんだ」
おかみさんはなにかつぶやいていた。
「ここはなにか変だわ。まるで魔法で浄化されたみたいに何も無い……。伝説では遠国の王子が呪いをかけたと……」
首を傾げていたおかみさんだったが、おもむろに右手を左の胸へ当てた。拳を握り、その手を前へ突き出す。と、その胸のあたりから、長いヒモのようなものがズラズラと引き出された。そのヒモは銀緑に光り、葉っぱと銀の小花がついた蔓だとわかった。
おかみさんは握った蔓の端を、前の砂へ突き立てた。
砂に植えられた蔓はぐんぐん伸び出した。砂の上で、無数に枝分かれして這いながら広がり、まるで生き物の触手のようにザワザワとうごめいた。
銀緑の蔓たちは僕らの足下にまでスルスルと伸びてきた。
「うわ!」
だが、僕らの足に当たると、実体の無い光の映像のようにすり抜けた。
「本物じゃないんだ」
おかみさんにこんな特技があったなんて!
「すごいな、これが魔法か」
トニオさんがしみじみと独りごちた。
銀緑の蔓草は、見える限りの砂浜をたちまち覆い尽くし――パアッ、と光って、光の粒になって、消えていった。
おかみさんの足下で、小さな木みたいになった三十センチほどの一本を残して。
「ここで何が起こったのか?――さあ、教えてちょうだい」
一本の蔓草は、その小さな花々から、チラチラと光の粒を放出した。光の粒は風に乗り、ゆ~らゆ~らと揺れながら、内陸の方へ飛んでいく。
「……そう、はじまりは、そこね」
おかみさんがふり向いた。
風が吹いた。
周囲の景色がゆがんだ。世界を構成するあらゆる色がにじみ、溶けるように混ざり合って、風の中に渦巻いた。
僕はめまいがしそうになり、慌てて目を閉じた。
風が止まった。
急いで目を開けた。
渦巻く色は停止していた。
次の瞬間、景色は固まった。
僕らは壁に囲まれた室内にいた。
おかみさんの後ろ姿があった。
男達のがさつな笑い声がした。
海賊どもがいた。
戦利品を前に狂喜している。
やけに豪華な飾り棚の前に、過去の僕がいた。子ども達と人質の女性も……。
僕はこの光景を知っている。
これからここで起こったことも。
「ニザくん、ここは?」
「海賊船の船長室です。海賊は、ここで、僕らに略奪品を見せたんです」




