回帰
大きな稲光が十字架に括りつけられた女の姿を浮かびあがらせた。
真っ白な肌には、幾筋もの血の跡が刻まれ、黄金の髪が暴風にたなびいている。
美しい顔は苦しみに歪み既に声も出せないようだ。
「リリアーヌ。お前は嫉妬に狂い、実の妹に毒を盛った。
お前などが、俺に焦がれることすら許されぬ罪だと言うのに。
私はエリーゼだけを愛している。悪女リリアーヌ。その罪を償うがよい」
ほとんど意識が無かったようなのに、リリアーヌと呼ばれた女は、王子の声を聞くと薄っすらと目を開けた。
どこまでも透明な美しい瞳。これ程のめにあっているというのに、その瞳に濁りはなかった。
だがどうやら意識は混濁しているようだ。
その美しい唇が微かな言葉を紡いだ。
「私は無実です」
その小さな呟きは豪雨と暴風にかき消された。
リリアーヌの最後の言葉は誰にも届くことは無かった。
王子が処刑人に責めるような目を向けた。
リリアーヌは筋骨隆々とした処刑人の鋭い鞭を、既に10回も受けている。
女であれば僅か3回の鞭で死に至る。
それどころか、鞭は肉を抉り、骨を砕き、遺体は無残に崩れ落ちる筈なのだ。
処刑人は王子の咎めるような目を見て震え上がった。
じっとりと汗をかいて女を見つめる。
王家の血を正当に引くリリアーヌは、その高い魔力に守られてまだ死ねないのだ。
いっそ最初の鞭で気を失い、そのまま死ぬ方がどれだけ楽だったかもしれない。
処刑人は、グッと鞭を握りしめ、渾身の力でリリアーヌを打った。
もしもリリアーヌを殺せなかったら、王子はこの処刑人に、ひとかけらの慈悲もかけないだろう。
処刑人は多くの人を殺してきたが、自分が殺されたくはなかったのだ。
その鞭が最後になった。
リリアーヌは最後の息を吐きそのまま動かなくなった。
リリアーヌが息絶え、王子はそれを満足げに見つめた。
王子の手にすっぽりと収まったリリアーヌによく似た少女が、その可憐な身体を震わせた。
王子はそっと少女を抱き寄せた。
「エリーゼ、怖がることはない。あの悪女はようやく死んだのだ。これでお前も安心だろう?」
エリーゼは潤んだ瞳で王子を見つめる。
「けれど可哀想ですわ。お姉さまをあんなに鞭打って殺すなんて」
如何にも情け深そうな顔でそう言ったが、エリーゼの口元は、その愉悦を隠しきれないように歪んでいた。
「エリーゼ。お前は優しすぎるのだ。リリアーヌは、お前を虐めぬいて来たのだろう?
できることならもっと苦しめたいぐらいだ。
さあ、あの恐ろしい悪役令嬢の事など、もう忘れてしまえ。お前は王妃になるのだから」
エリーゼは優しい口づけでそれに応えたから、王子はエリーゼを抱き上げて部屋に戻った。
「カール王子。ありがとう」
エリーゼの頬は興奮したように赤く染まっていた。
カール王子は恋人のその言葉で十分に満たされた。エリーゼは満足したのだ。
「エリーゼ、満足したのだな?それなら今度はお前が俺を満足させる番だろう」
カール王子とて馬鹿ではない。
この度の毒殺事件なぞ実際にはエリーゼが木の実を食べすぎただけのことなのだ。
高位貴族ならライラの実は少量ならば美容に良いが食べ過ぎれば嘔吐をもよおすことなど知っている。
ところがローゼンベルク侯爵家の後妻マリアは子爵家の出身。
それを知らなかったのだ。
一粒が金貨1枚もするライラの実を食べすぎる事が、そもそもありえないことだった。
だがカールは自分の欲望に正直なエリーゼを可愛いと思う。
こんなに可愛い女は見たことが無い。
王妃など務まるはずもないのだが、遊ぶのには丁度良い娘なのだ。
エリーゼがせっせとカール王子に奉仕したので、王子はたまらずエリーゼを抱きしめた。
そうしてエリーゼは、姉の死んだ夜を存分に楽しんだのだ。
だがその夜、情け容赦なく王家の山荘の前の湖に捨てられたリリアーヌの身体を受け止めたのが、神龍であったことは誰も知らない。
神龍は人化すると、女の身体を愛おしげに抱きしめた。
青い髪に青い目。
下手をすると女とも見まがう美しい神龍は、その威風によってこの世界の王たる事を証明していた。
「すまない。長き眠りについていたために、我が番の危機に気がつかなかったとは」
嵐は収まり美しい月が、穏やかな湖と美しい神龍の男を照らしている。
神龍は傷だらけのリリアーヌの身体を魔力で包んだ。
薄い青い膜のようなものが女の身体をゆっくりと癒していく。
リリアーヌの身体は青い衣を纏い、まるで女神のように美しかった。
神龍はそっと女の頬に掛かった黄金の髪を払ってやった。
まるで壊れやすい宝に、触れてでもいるように。
月の光が女の頬を照らしている。
だが、いかに神龍の魔力が膨大でも、死者を蘇らせることはできようはずもなかった。
神龍はそっとリリアーヌを抱き上げると声を響かせた。
「我、蒼天の王ニルヴァは、時の女神の慈悲を乞う」
それはまるでこの世界を統べる者のように荘厳で、己に従うのが当然と思っているかのようだった。
闇の中に女神が姿を現した。
時の女神の周囲に深い闇が広がっていく。
空には煌々と月の光が満ちていたというのに。
「蒼天の王よ。わらわの慈悲の対価に何を寄越すつもりじゃ」
女神は幾分か愉悦を含む声で尋ねた。
「そなたは、何を望む?」
神龍は静かに尋ねた。
「蒼天の王よ。その女はそなたの番であろう。ならば子が生まれる筈。
その娘の一人を我に寄越せ。我が愛し子としたいのだ。我には愛し子はいないからのう」
神龍はふっとその表情を緩めた。
「そなたは闇に属するもの。人の愛し子は望めぬだろう。
良いだろう我が娘の一人を、そなたの愛し子とすることは認めてやろう。
ただしそなたに娘を与える事は出来ぬ」
「なんと。我が加護だけを奪うのか。娘を与えもせぬのに」
「そなたは念願の愛し子を得る事が出来る。そなたの加護を受けたいと望む者が他にいるとでも?」
神龍の痛烈な言葉に闇の女神がしばらく沈黙した。
「良かろう。何年さかのぼる?そなたの対価は低い。それほどさかのぼることは望めぬぞ」
「1年だ。リリアーヌはまだ19歳。18歳にまで戻してくれ。1年あれば十分この王国を揺るがしてやれる」
その神龍の言葉に女神は呆れかえった。
「蒼天の王ニルヴァよ。そなたは忘れておるのか?我らは人の世に関与することは許されぬ。
いかに蒼天の王とはいえ、理を歪めれば大精霊の審判を受けることになるぞ」
「心配するな。復讐するのはリリアーヌだ。私が人の世に関わる訳ではない」
時の女神は実に嫌そうに顔をゆがめた。
「蒼天の王よ。そなたは自分が脳筋と言われるゆえんを忘れ果てたか?
そなたに人の言葉の裏は読めぬ。それゆえにすぐに人に縛られる。
300年も眠ったのも、人にたばかられたからであろう?余計な事は考えぬことだな」
そう言い捨てて女神は時を戻したから、神龍は返事をすることも出来なかった。
そう。蒼天の王ニルヴァは直情型で有名なのだ。
だからいつも賢い人間に言葉だけで縛られる。
蒼天の王の言葉は常に誓言になってしまうのだから。
リリアーヌは、ぼんやりと目を瞬かせた。
時の女神が「回帰せよ」と命令した声をうっすらと思い出していた。
あの時、リリアーヌは鞭に討たれて死んだはずだったのだ。
けれど考える時間も残されていなかった。
どしんと力まかせに腰を押されて、リリアーヌはドブンと池に落とされてしまったからだ。
身体が水に沈んでいくとき、リリアーヌは自分が18歳に戻った事を知った。
エリーゼが力任せにリリアーヌを池に落とした時、振り返りながらリリアーヌがエリーゼの殺意に満ちた目を見たのは、二度目だったのだから。
息が苦しい。
必死で空気を求めるリリアーヌの口にごぼごぼと水が入り込む。
意識を手放しながら、リリアーヌは思った。
あの苦しい人生を、どうして自分は繰り返さなければならないのだろう?
意識を失ったリリアーヌの顔には絶望が刻まれていた。
次にリリアーヌが目を覚ました時、リリアーヌの前には侍女服を着たセーラがいた。
ローゼンベルク侯爵邸。
その離れにある打ち捨てられた館。
書庫であったこの古びた館はリリアーヌの居場所だった。
「お嬢様。良かった。気がついたのですね」
心配そうに見つめるのはリリアーヌの乳姉妹であるセーラだ。
セーラはリリアーヌの乳母の娘。
共に育ったから侍女とはいえ、本当の姉妹のように仲が良かった。
生母が亡くなり、使用人が全て義母に従ってリリアーヌを見捨てたのに、頑固にリリアーヌの傍から離れない。
リリアーヌが鞭打たれた時、セーラはリリアーヌを庇おうとして殺された。
リリアーヌはぎゅっとセーラを抱きしめた。
「良かった。セーラ。生きていてくれたのね。良かったわ」
そう言ってリリアーヌはほろほろと涙を流した。
「どうしたのですか?もう大人なのにそんなに泣いて。
池に落ちたお嬢様を見た時は驚きましたが、幸い庭師のサムが、すぐに飛び込んで助けてくれたのですよ。
お医者さまはやはり来て下さらないそうなので。風邪をひかないように暖かくしないと。
お茶を沸かして参ります」
「いいえ、それより食糧庫に行って食べ物を少しでも沢山持ってきて!
急いでね。
もうすぐエリーゼがやって来てここを封鎖するわ。
そうなったら私は食べ物もないままここに閉じ込められる。だから急いで」
セーラは驚いたようにリリアーヌを見つめたが、すぐに館を飛び出した。
食事は、本館の厨房からセーラが運んでくる。
ここには食料は無いのだ。
まさかとは思うがリリアーヌが閉じ込められたら餓死してしまいかねないのだ。
間に合うだろうか?
前回リリアーヌは、勝手に庭に出て池に落ち、侯爵邸を騒がせた罪で10日も幽閉された。
結界石でご丁寧に周囲に結界を張られたので、誰も出入り出来なかった。
その10日の間、リリアーヌが口にしたのは水だけだったのだ。
それでもリリアーヌは強い決意をその瞳に宿していた。
リリアーヌが殺されるのは1年後だ。
前の人生ではいつもリリアーヌは従順で素直な娘だった。
どれだけ虐待されても、ただ耐えて来たのだ。
「もう、二度と私のものを奪わせないわ。
私の母は王女とヴァレンティア公爵の娘だったのよ」
「ヴァレンティア公爵は現王の従兄弟。
私は由緒正しい王家の血筋。
どうして子爵家の娘などに辱められなければならないの」
そうしてリリアーヌは魔力を編んだ。
魔力で造られた鳥はリリアーヌの伝言を携えて一路ヴァレンティア公爵家へと飛んだのだった。
「お母さまが亡くなって一度もこちらにいらっしゃらないし、お便りに返事も下さらない。
けれどもお祖父様。
今回だけでいいのです。どうか私を助けて下さい」
リリアーヌは指を組むと真摯に祈りを捧げるのだった。




