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第九章② マクシム

 ブレスト城へ続く坂道に潮の匂いを含んだ夜風が吹き抜ける。

 灯りは少なく、石畳は月の灰光を薄く返すだけだった。

 マクシムは歩みを止め、耳に揺れる黒ずんだ石を指先でつまんだ。

 その感触が、二十年のあいだ沈殿していた記憶の層をゆっくりと撫で起こす。

「……あんたなら、どう言う」

 ほとんど無声音の呟き。返事が返るはずもないのに、マクシムは無意識に相手の反応を思い浮かべていた。

 ゼフィランサスは叱りもせず、慰めもせず、ただ淡い眼差しで人を見つめる男だった。

 あのまなざしだけは二十年経っても朧にならない。むしろ年月が静かに研磨したせいで、輪郭だけが妙に鮮明になっている。

 「生きろ」とか「立ち向かえ」とか、そんな分かりやすい言葉を残す人じゃない。彼が放つ言葉はいつも短く不可解で、そしてなぜか胸に刺さる。

 家族を守ろうとした男。無茶な戦いを選んだ男。——理解できなかったはずの選択が、いまは分かる気がした。

 マクシムの胸の内に痛みとは違う鈍い圧が広がる。怒りでも哀悼でもない。もっと曖昧で、もっと根深い、言葉に触れた途端に形を変えるような感情だった。

「……あんたの選べなかった続きを、おれがやる」

 そう呟くと胸の奥にひとつ、静かに石が落ちたような感覚が走る。

 覚悟というより、回収できなかった人生の続きを手に取る動作に近かった。

 マクシムはひとつ息を吸い、前を向く。城門が黒い輪郭で夜空に立ちはだかる。

 二十年前の途切れた場所を越えるための、ただの入り口。

「……行こう」

 その短い言葉とともに彼は闇の中へ歩みを進めた。暗い回廊を通り抜け、中庭へ出る。そこは、まるで舞台の幕が降りる前の沈黙に支配されていた。

 ——ぱち、と。次の瞬間、城壁の上にひとつの松明が灯る。続いて連鎖するように炎が走り、瞬く間に中庭全体が光の洪水に包まれた。暗闇にまぎれていた影はすべて暴かれる。

 マクシムの姿もその中心で赤い鉢巻きを照り返した。黒ずんだ石が炎の中で鈍く光る。

「……そう来るか」

 驚愕は微塵もなかった。まるで待ち望んだ幕がようやく上がったとでもいうような静かな声音。アッシュの髪が炎に赤く染まる。甲冑の擦れる砂利のような音が四方から響き渡る。

 第八部隊と第九部隊。重装の兵士たちが円陣を組んで現れ、マクシムを囲むようにじわりと陣形を狭めてくる。やがて城壁の上に三つの影が現れた。

 ルソー、イザベル、そしてアルフォンス。三人は松明の炎に照らされ、武器を構えたまま見下ろしていた。

「マクシミリアン・ブーケ!」

 ルソーの声が中庭を貫く。

「大元帥暗殺、並びに国家への謀反の疑いにより、お前を拘束する!」

 周囲の兵士たちが一斉に武器を構えた。中庭の空気が鋼を研ぐように張り詰めていく。だが、マクシムは一歩前へ出る。堂々と、まるでこの場の主であるかのように。

「ようやく来た」

 松明の光が彼の影を大きく落とし、夜気を震わせる。

「二十年……この瞬間をおれは待ち続けていた」

 その声には凄烈な悦びすら滲んでいた。

「聞け」

 低い響きが中庭を切り裂く。

「今日までおれたちを縛り、血を吸い、家族を奪ってきた海軍どもを——」

 マクシムは堂々と指先を掲げた。

「この場で討つ!」

 その瞬間、風すら息を潜めた。炎が揺れ、鋼の列がわずかにたじろぐ。中庭に走ったマクシムの咆哮は、古城の石を震わせて反響した。

 刹那の静寂。夜の空気が薄い膜のように張り詰める。胸の奥では、熱と冷たさが交互に波打っていた。怒りと恐怖、そのどちらでもない、もっと芯に沈んだもの。

 師であり、救いだったゼフィランサスの姿が闇の向こうにぼうっと浮かぶ。

 あの背中に触れられないまま終わるくらいなら、この城に喰われて散っても構わない。

 それほどまでに、いまの彼は誰にも属していなかった。その時——

「——マクシミリアン・ブーケ!」

 城壁通路の上から声が降った。甲高く澄んだ声。聞くだけで戦場の空気が一段研ぎ澄まされる。

 松明の炎に照らされた白い軍服。剣を抜き、背筋を鋼のように伸ばしたイザベルが城壁の縁に立っていた。夜のブレスト城を背にしたその姿は、規律そのものが実体化したかのよう。

「貴様の行いは、明白に国家への反逆である!」

 怒声ではない。冷徹な正義が寸分の揺らぎもなく彼を射抜く。

「だが、軍の規律に従い——今一度、降伏の機会を与える。武器を捨て、両手を挙げよ。命だけは保証する!」

 城壁通路の兵たちが一斉に剣や銃を掲げる。火の粉が舞い、別の世界へ踏み込んだような緊張が空気を引き裂く。

 ——ゼフィランサスならどうするか?

 問いかける必要さえない。あの人は自分にどう動くべきかではなく、「何に賭けるか」を教えた。

 マクシムは静かに双剣を構える。斬撃の刃と、突きの刃。リー・ウェンが託し、ルキフェルが名をくれた、彼の戦う理由そのもの。

「降伏は——ない」

 声が低く夜を削った。

「おれは、ゼフィランサスと故郷に賭ける」

 イザベルの瞳に揺らぎのない決意が灯り、ルソーが剣を握り直し、アルフォンスが射撃角を測るように姿勢を整える。城門の奥で兵士たちの影が波打ち、夜風が刃の匂いを運んだ。世界が極端に細く、長く伸びていく。時間が薄い膜になって、マクシムと敵の間に張っているかのよう。

 マクシムはその膜を裂くように足を一歩踏み出した。

「来い!」

 その叫びと同時に沈黙が破れた。刃の閃光が夜を切り裂き、城中に戦意の風が吹き荒れる。

 マクシムは、迷いなく敵陣へ踏み込んだ。


 ——夜の城に、静かな嵐が舞い降りた。


 ブレスト海を滑る一隻の帆船。

 燃え上がるブレスト城の炎を遠目に見据え、船上の明かりに照らされた舳先。

 顔面に深い傷跡を刻んだ男が立っていた。その脇には赤髪の男。二人とも決意を胸に城を見据えている。

 傷の男は低く唸った。

「遅かったか……!」

 だが、赤髪の男は静かに首を振って声を抑えて答える。

「いや、まだ間に合う」

 夜空を覆っていた霞がゆっくりと消え、ひとつ、またひとつと星々が姿を現す。

 静かな光が燃える城と二人の決意を冷たくも凛とした輪郭で照らしていた。

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