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第三章⑥ ソフィーとマクシム

 ソフィーは自室の机に向かい、深く息を吐いた。

 窓から差し込む昼の光が、静かに室内を満たしている。だが胸の奥には、まだ嵐の余韻が残っていた。

 机の上には、見慣れた日記帳とペン。手に取ることはできても、言葉が出てこない。

 何を書けばいいのか。いや、どう書けばいいのか。

 言葉にしてしまえば、この胸の内が、形を持ってしまう気がした。

「……どう書けば、いいのかしら」

 小さく呟き、ペンを握り直す。迷いを振り払うようにページをめくり、静かに書き始めた。ペン先は慎重に、けれど止まらず進んでいく。

 ゼフィランサスのこと。ラウルのこと。そして、エリオットという一人の人間の過去。

 ラウルが、大元帥の息子だったこと。あの首飾りが、その証だったこと。

 書きながら胸の奥が軋む。

 ラウルは、もういない。

 その事実を文字にした瞬間、呼吸が浅くなった。ペンが止まる。だが——

「……書かなければ、整理できない」

 小さく呟き、再びペンを走らせる。

 ナーガの護符。海を越えて届くはずだった父の想い。

 それを託されたまま、自分の手にあるという事実。

 すべてが、偶然とは思えなかった。

 白い紙に、感情が静かに沈んでいく。


 今日は、大元帥と長い話をした。

 私はあまりにも多くのことを知ってしまった。

 ラウルは、大元帥の息子だった。

 そして、もうこの世にいない。

 どうしてこんなことになるのだろう。

 どうして、こんなにも残酷なのだろう。

 あの首飾りは、ラウルのものだった。

 そして今は、私の手にある。

 まるで、すべてが繋がっているみたいに。

 でも、その先にいるはずの彼には、もう会えない。

 約束も果たせない。

 私はどうすればいいのだろう。

 ただ、悲しい。ただ、それだけなのに。

 どうしてこんなにも、苦しいのだろう。


 ソフィーはペンを置いた。次の瞬間、力が抜けたように机に突っ伏す。書ききれなかった感情が、胸の奥で渦を巻く。指の隙間から、涙がこぼれ落ちた。視界の端で、首飾りがかすかに光る。それは慰めではなく、ただ痛みを思い出させるものだった。しばらく、そのまま動けなかった。やがて呼吸がわずかに整い、ゆっくりと体を起こす。けれど、胸の重さは何も変わらない。

 窓の外では、昼の光が静かに揺れている。

 それでも、彼女の中の闇には届かなかった。


 マクシムは夜気の中、宿舎の外に立っていた。

 灯のともる窓を見上げると、そこはソフィーの部屋。カーテン越しに、机に向かう彼女の背の影がぼんやりと浮かび上がっていた。外からでは細かな様子まではわからない。ただその影が長く動かず、やがて頭を抱えるように沈んでいくのを目にした時、マクシムの胸に痛みが走った。

「ソフィー」

 呼びかけたい衝動が喉までこみ上げるが、声には出せなかった。

 窓越しに伝わるはずもない。だが、苦しんでいる彼女を直視しながらも何もしてやれない自分が歯痒くて仕方がない。拳を固く握りしめながら、マクシムはただ立ち尽くしていた。夜風が頬を撫でても、その場から離れることができない。ただ灯の奥で頭を抱える彼女の影を見守り続けるしかなかった。

 動けずにいるマクシムの背に、ふと軽やかな足音が近づいてきた。

「ソフィーが心配ですか?」

 振り返ればリラがそこに立っていた。月明かりに照らされた横顔はからかうでも詮索するでもなく、柔らかに問いかける眼差しを向けている。

 マクシムは一瞬言葉を失い、窓を見上げたまま小さく息を吐いた。

「…はい。あの子は……無理をする」

 彼の声はかすかに掠れていた。

 リラは少しだけ笑みを浮かべ、マクシムの隣に並ぶ。二人で窓を見上げると、ソフィーの影はまだ机の上に伏すように沈んでいた。

 リラはしばし無言でソフィーの影を眺めていたが、やがて視線をマクシムへ移した。

「なら、なぜ声をかけないのです?」

 囁くような問いは、夜の静けさに溶け込むにはあまりに鋭かった。マクシムの肩がわずかに強張る。だが彼は窓から目を逸らさずに答えを探していた。

「……今のあの子に、僕の言葉が届くと思いますか?」

 低く呟いた声には苛立ちと諦念が入り混じっている。

 リラは首を横に振る。

「届くかどうかは、あなたが決めることではありません。ソフィーにしか決められないことです」

 その真っ直ぐな眼差しにマクシムは一瞬だけ視線を落とし、言葉を失った。それからしばし沈黙した。喉の奥が張りつくようで、言葉を押し出すのに時間がかかる。やがて、窓辺のソフィーの姿を見つめたままかすれる声で呟いた。

「……怖いんです」

 リラは瞬きし、彼を見つめる。

「僕が何を言っても、またあの子を泣かせるんじゃないかって。僕なんかが傍にいることで、余計に苦しめるんじゃないかって……」

 拳を握りしめる音が夜気の中にかすかに響く。

「ソフィーは、もう十分に傷ついてる。これ以上、僕のせいで」

 言葉が途切れた。唇を噛み、吐き出しきれない思いを必死に押し殺す。

 リラはその姿をじっと見つめ、口を開いた。

「……それでも、あなたは彼女から離れられないのでしょう?」

 マクシムは返事をしなかった。ただ、窓に映る小さな影から目を逸らせずにいた。リラはマクシムの言葉を聞いた後もなお、じっと彼を見据えていた。夜の静けさの中、その眼差しは妙に鋭く、逃げ道を与えない。

「怖いのはわかります。でも……あなたはただ怯えているだけでいいのですか?見守るだけで、本当に彼女を守れると思っているのですか?」

 マクシムの胸が強く締めつけられる。その視線に射抜かれるようにして、彼は唇を噛みしめた。

「……離れられるわけがない」

 低い声が夜気にかすれる。彼は窓に向けていた視線をようやく逸らし、拳を膝に叩きつけた。

「エリオットと何を話したんだ……何があったんだ。僕にはわからない。でも……強がりな彼女が、あんなに泣くなんて……おかしいだろう」

 リラは静かに瞬きをした。マクシムの吐き出す言葉が彼女の想像以上に生々しい痛みを帯びていたからだ。

「……知りたい。何が彼女を泣かせたのか。知って、そして僕が……どうすればいいのか、見極めなければならない」

 マクシムの声は震えていた。

 リラはじっとマクシムを見つめ続けていた。彼が吐き出した苦悩の言葉をすべて聞き終えたあと、ふっと小さく息を吐く。

「……やはりそうでしたか」

 彼女の声音はどこか寂しさを帯びていた。しかし同時に、その瞳には揺るぎない光があった。

「あなたは彼女を心配している。けれど……まだ恐れているのです。ソフィーに触れることを」

 マクシムの肩がわずかに強張る。その反応を見逃さずリラは一歩踏み込む。

「彼女が泣いている理由を知りたいのでしょう?それでも、あなたは自分の手でその涙を拭うことをためらっている。まるで触れた瞬間、彼女を壊してしまうとでも思っているように」

 夜の風が二人の間を抜け、沈黙が落ちた。

 マクシムは口を開きかけた。だが、言葉にならなかった。喉にせり上がってくるのは、ただ漠然とした苦しさだけ。結局、彼は何も答えられず、ただ夜気を吸い込むようにして視線を落とした。

 リラはそんな彼の沈黙を見据えていた。まるで「やはり」というように、静かな諦観を帯びながら。

「……沈黙は、何より雄弁ですね」

 彼女は小さく呟き、マクシムの横顔から視線を外さなかった。

 リラはそれ以上言葉を重ねず、静かに一歩後ろへ退いた。踵を返しかけたその時、低い声が夜気を裂いた。

「……わかった」

 マクシムだった。握りしめた拳を開き、唇を固く結んだまま続ける。

「問いただしてみる」

 リラは足を止めた。振り返れば、彼の眼差しには決意の色が濃く宿っている。

「彼女はきっと話してくれないだろう。いや……話せないんだろうな」

 マクシムは、どこか苦しげに息を吐いた。

「それでもいい。ならば、エリオットに直接聞けばいい」

 短い沈黙ののち、リラが低く問う。

「……いつ?」

 マクシムの口元に、鋭い影が走った。

「そりゃあ君……」

 彼は夜を切り裂くように視線を上げ、短く吐き捨てる。

「刃を向ける時だよ」

 リラの目には、もはや迷いを振り切った人間の姿が映っていた。

 マクシムはもう止まらない。その背中からは重い決意が立ちのぼるようで、夜気すらも緊張に震えているように感じられた。

 リラは小さく瞼を伏せ、深く息を吸い込んだ。

「……そう。なら、私は見届けるだけ」

 それだけ告げると彼女は静かにその場を去っていった。

 残されたマクシムは、なおもソフィーの部屋の窓を見上げていた。拳を握り直し、心に宿した決意を何度も確かめるように。

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