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幸福な敗北


昇降口を出たとき、澪は校門へ向かわなかった。


袖の端をつまんだまま、渡り廊下のほうへ曲がる。

凪は何も聞かなかった。聞かなくても、足が従った。


静寂館の扉が、また目の前にある。


さっき出たばかりだ。廊下を歩き、白鷺とすれ違い、ひなたに笑って、昇降口まで行った。

それなのに戻っている。戻っていることに、驚くより先に、体が落ち着いてしまっている。


澪が取っ手に手をかけて凪を見た。


「入る?」


問いの形。でも凪の足はもう止まっている。止まっていることが答えだった。


「……うん」


扉が開き、外の音が一段遠ざかった。

紙の匂いが戻ってくる。薄い光が棚の角で割れて、床に落ちる。


中は、変わっていた。


アクリル板は、壁際に寄せられていた。透明な板が、もう「境界」ではなく、ただの“片付けられた物”として立てかけられている。

椅子も机もない。いつもなら澪の本が置かれていた場所が、空だ。


凪の足が、無意識に止まった。


椅子があった位置。報告を始めるための位置。

体が覚えている。何度もここで息を整え、事実を並べ、線を引かれた場所。


椅子がないのに、立ったまま、その位置に立っている。


澪が棚の間を通って、凪の隣へ来た。

近い。同じ空気。板越しじゃない距離。


澪が足元を一度見て、凪の顔に視線を戻す。


「そこに立つんだ」


凪は自分の靴先を見た。椅子のない場所。役目を終えた板。形式の消えた室内。

それでも体が、ここに立たせる。


澪が淡々と続ける。


「報告がなくても、来た」

「復讐が終わっても。箱が消えても。メモが止まっても」

「——戻ってきた」


凪の喉が熱くなった。何か言おうとして、息だけが震えた。


「俺……変ですか」


澪は首を傾ける。


「変じゃないよ」

「ただ、選んだだけ」


選んだ。

空っぽの朝に、起き上がれなかった自分を思い出す。

「埋めてあげる」を聞いて、体が軽くなったあの瞬間も。


凪は小さく頷いた。


「……はい」


その返事が、もう素直すぎるほど素直だった。

素直であることに、痛みがない。


澪は棚に背を預け、本の背を指先でなぞった。読むためじゃない。触れているだけだ。


「凪」


名前を呼ばれる。板がなくても、背筋が反射で伸びる。


「終わったね」


「……終わりました」


声が静かだった。悲しくない。勝った喜びも、もう暴れない。ただ、確認。


澪が小さく頷く。


「十分」


肩から何かが落ちる。軽くならない。代わりに、隣にいる重さが乗る。


澪が凪の手の甲に、指先を一度だけ落とした。

布じゃない。皮膚に触れる。温度が入る。冷たいはずの指が、熱として残る。


「約束、覚えてる?」


凪は頷いた。最後の条件。大事なことは、先に言う。


澪の目が凪を捉えたまま、離さない。


「じゃあ、今」

「今、なに?」


逃げ道がない。逃げないと決めたことが、この瞬間に形になる。


「……嬉しい」


声が小さくなる。


「それだけ?」


凪は唇を噛んだ。言えば汚くなる。言えば確定する。

でも、戻りたいとは思っていなかった。戻りたいと思えないこと自体が、もう負けだ。


「楽です」


凪は言った。


「ここにいると、楽です。澪さんの声を聞いてると、頭が静かになる」


言葉が出始めると止まらなかった。


「外は……うるさい。視線も、ひなたの優しさも、勝ったあとの空気も」

「全部、うるさい」


凪は自分の声を聞きながら、これは告白だと分かった。

恋の告白じゃない。もっと深い場所——自分が一人で立てないことの告白だ。


「澪さんの声だけが、静かです」


澪は表情を変えないまま、指先の圧だけを少し強めた。


凪は息を吐いて、もう一つを口にした。


「……怖いです」


「なにが」


喉が詰まる。言うと確定する。言うと、もう戻れない。


「澪さんが……いなくなるのが」


言った瞬間、体の芯が冷えた。


澪は視線を逸らさない。


「いなくならない」


断言。根拠も理屈もなく、ただ真っ直ぐな断言。

その断言が、凪の中で真実と同じ重さになる。


澪が続ける。


「あなたが言葉をくれる限り、私はここにいる」


順番が逆だ、と頭のどこかが言う。

“いるから言う”じゃない。“言うからいる”。


凪の口が、最後の抵抗みたいに動いた。


「……言わなかったら?」


澪は黙った。


三秒。五秒。

沈黙の中で、澪の指が凪の手の甲をほんの少し撫でる。

答えは出さない。代わりに、凪自身に答えを出させる沈黙。


凪は、その沈黙の中で理解した。


言わない自分を想像できない。

朝、目が覚めて、学校に来て、何も言わずに一日を終える自分が、像を結ばない。


凪は小さく笑った。負けを認める笑いだった。


「……しないわけ、ないです」


澪の口元が、ゆっくり動いた。

笑みというより、「知っていた」という表情。


澪は手の甲から指を離し、凪の頬に指先を当てた。

冷たい指。でも凪の頬は熱かった。触れられて初めて気づく。


澪が凪の目を見て、言う。


「あなたの心、全部、私のもの」


呼吸が止まった。


やさしい言い方じゃない。守るとも好きとも言わない。

「私のもの」。所有。剥き出し。


なのに、凪の内側がほどけた。


曖昧に揺れなくていい。

どこにいるか分からない夜が、もう来ない。


凪は頷いた。


「……はい」


声が割れる。割れた声を、澪は否定しない。


澪は頬から指を離し、今度は凪の制服の胸元をつまんだ。

袖じゃない。心臓の近く。布一枚の向こうで鼓動が速いのを、澪の指が知っている。


「次は、あなたを守る番」


守る。

その一語が、凪の中で二つの意味を持つ。

守護と管理。やさしさと支配。


どちらでもいい、と凪は思ってしまう。

思ってしまうことを、もう止めない。


「……守られてるのに?」


凪の声は驚くほど穏やかだった。


澪は目を細める。


「守られてるから、守れる」


理屈じゃないのに、いちばん深く入った。


澪が扉のほうへ目を向ける。


「帰ろ」


送り出す言葉じゃない。一緒に帰る言葉。


凪は小さく頷いた。


「……うん」


扉が開く。外の音が戻る。夕方の光が廊下を薄く照らす。

うるさい。眩しい。でも今日は歩ける。隣に澪がいるから。


渡り廊下を抜けて教室棟へ出たとき、廊下の向こうに、ひなたの後ろ姿が見えた。


鞄を肩にかけて、一人で歩いている。

角を曲がる直前、振り返らないまま消えていく背中。


凪は追いかけなかった。


追いかけないことを選んだのか、選べなかったのか。

分からないまま、背中が消えた角を見つめて五秒動けない。


澪が袖をつまんだ。引っ張らない。待つだけ。


凪は息を吐いた。


「……行こう」


自分から言った。

それが今の凪にできる、ひなたへの精一杯の答えだった。


昇降口を出ると、夕陽が低い。

風がぬるい。春の匂いがする。


二人の影が長く伸びて、重なる角度がある。

重なると、一つに見える。


凪は歩きながら口を開いた。


「……報告」


澪が横を向く。


「なに」


凪は息を吸って、吐く。


「明日も、来ます」


澪は一拍だけ黙った。

そして、指先の圧をほんの少しだけ強くする。


「うん」


それだけで、凪は歩き出せた。


明日も来る。

嬉しいも怖いも空っぽも、先に澪に。

それが首輪だと分かっていて、外さない。


夕陽が沈みかけて、影がまた重なる。

凪は何も言わずに、澪の隣を歩いた。


報告は、もう済んだ。

明日も、済ませに行く。




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