空っぽ
朝、目が覚めたとき、天井が遠かった。
目覚ましは鳴った。止めた。止めたあと、十秒動けなかった。
体は痛くない。熱もない。ただ――起き上がる理由が、すぐに出てこなかった。
昨日、校門で一人だった蓮の背中が、天井に貼りついている。
声にならない「なんで」が、唇の形だけで残っていた。
凪は布団から出て、制服に袖を通した。
ボタンを留める指が、一瞬だけ順番を迷う。
(勝った)
そう思うたびに、胸の中がすっと空く。
空くのに痛くない。痛くないことが、いちばん変だった。
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昇降口を抜けて教室棟に入ると、空気は昨日よりさらに「終わって」いた。
蓮の名前が、もう話題になっていない。
誰も怒っていない。誰も笑っていない。
ただ、もう「触れない」――それが一番の終わり方だった。
教室に入ると、蓮はいた。
いつもの席。いつもの姿勢。
でも机の上にスマホがない。手持ち無沙汰の手がシャープペンを回している。
回す速度が速い。止め方を知らない手だった。
誰も話しかけない。
蓮も、誰にも話しかけない。
凪は自分の席に座った。
ポケットのメモ帳に指が触れて、引っ込めた。
――何を書く。
盤面はもう、動いていない。
動いていないものに、三行の居場所はない。
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一時間目。二時間目。三時間目。
授業はいつも通りに進んだ。
凪はノートを取った。取ったのに、何を書いたか覚えていなかった。
休み時間のたびに廊下を見た。
図書室前の箱はまだある。白鷺が管理している。封筒の数は増えているはずだ。
でも――それがどうした。
蓮はもう中心にいない。
箱は回り続ける。凪が触れなくても回る。
(俺がいなくても、回る)
その事実が胸の底に沈んだ。沈んだまま、浮かんでこなかった。
昼休み前、ひなたが凪の席の横を通った。
通りすがりに、小さく言う。
「凪。今日、顔が薄い」
凪は笑おうとした。
口角が動かなかった。
「……寝不足」
ひなたは首を傾げて、三秒だけ凪を見つめてから、行った。
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昼休み。静寂館。
扉を押した。いつもの音。いつもの匂い。
今日は足が重かった。重いのに、来ている。
来ないという選択肢が、もう凪の中にない。
それが、少しだけ怖い。
椅子を引いて座る。
澪はアクリル板の向こうにいた。本は最初から閉じている。待っていた。
「報告」
凪は口を開いた。
「……報告、ありません」
自分の声が思ったより乾いていて、驚いた。
「蓮は教室にいます。誰も話しかけない。蓮も話しかけない」
「箱はあります。白鷺さんが管理しています。……でも、俺は何もしてません」
息を吐いた。
吐いたあと、続く言葉がない。
「……報告することが、ないです」
澪は黙っていた。五秒。十秒。
その沈黙が、凪の空っぽを測っているみたいだった。
凪は膝の上の手を見た。
今日はメモ帳を出していない手。何も書かない手。
「昨日、交換条件で“空っぽが怖い”って言いました」
澪は動かない。
「今日――怖くないです」
声がかすれた。
「怖くないのが、いちばん変です」
澪の睫毛が一度だけ揺れた。
「痛くもない。悲しくもない。すっきりもしない。苦しくもない。――何もない」
「勝ったんですよね、俺」
「勝った」
澪が短く認めた。
凪の喉が詰まった。
「勝ったのに、何も埋まらない」
「蓮がいなくなっても、メモが止まっても、箱が回っても――俺の中が空っぽのままです」
凪は顔を上げた。
「澪さんの声を聞くと、少しだけ形が戻る」
「だから、来ました。……来ると、楽になる」
澪は否定しない。否定しないまま、五秒待った。
「凪」
名前を呼ばれて、背筋が勝手に伸びた。
「空っぽは、怖くない」
「空っぽは――埋められる」
凪の息が止まった。
澪の指先が、アクリル板の縁をなぞった。
こちら側に触れようとするみたいに。触れない距離を、確認するみたいに。
「なら、埋めてあげる」
心臓が一拍飛んだ。
飛んだ先に、熱があった。
澪は指を引いた。引いた指を膝に戻す。
声は冷たくない。冷たくないのに、逃げ場がない。
「蓮がいなくなっても、あなたはここに来る」
「来る理由は、もう復讐じゃない」
凪は何も言えなかった。
「来る理由は、私」
凪の目の奥が熱くなった。
その熱の意味を、まだ言葉にできない。
「それでいいの。凪」
許可だった。
空っぽを埋めてもらう許可。ここに戻っていい許可。
凪は――頷いた。
頷いた瞬間、体が軽くなった。
朝の重さが、嘘みたいに抜けた。
「……はい」
澪は本を開くふりをした。
ふりだと分かっているのに、日常の仕草に戻ることが、凪を落ち着かせた。
「明日。白鷺に渡す“締めの掲示”を整える。結衣が書く」
「あなたは確認だけ」
残務処理のような声。
復讐の最後を、静かに閉じるための手順。
「行って」
凪は立ち上がった。
扉に手をかけて、今日は振り返った。
澪は本に目を落としている。
でも指が、次の頁へ行かないままだった。
凪は扉を閉めた。
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放課後。
校門の前に、ひなたがいた。
昨日と同じ場所。今日は凪のほうを向いていた。
「凪」
ひなたが小さく手を上げる。
凪は歩いて行った。
朝より速い速度で。
「顔、戻った」
ひなたが笑った。
凪の知っている「安心したときの笑い方」だった。
凪は小さく笑い返した。今日は、返せた。
「……うん。もう大丈夫」
ひなたは首を傾げた。
「何かあった?」
凪は一拍だけ迷って、首を振った。
「……ない。大丈夫」
言った瞬間、喉が少しだけ痛んだ。
それでも、ひなたの歩幅に合わせられた。
二人で校門を出た。夕陽が長い影を作っている。
凪はポケットの中で、メモ帳の角に触れた。
今日は一行も書いていない。
書かなくても――明日も扉を押す。
明日も、声を聞く。
復讐が終わった後の「帰る場所」を、もう手放したくないと思っている。
その気持ちを、凪は否定しなかった。否定できなかった。
夕陽の中で、ひなたの影と自分の影が並ぶ。
並んだまま、凪の胸の空っぽは、少しだけ形を変えた。
埋まったのかどうかは、まだ分からない。
でも――埋めてもらえると、信じてしまった。




