86
「……?」
父と呼ばれたところで、薄汚れた庶民の青年。
バルモア三世が咄嗟に得心できなかったのも、むしろ当然だ。
しかし、揺らめく灯りが照らし出す容貌を見れば、亡き愛妃の面影が確かに宿っている。
その容貌を持つ者が、自らを父と呼ぶのなら、相手は自ずと知れていよう。
「っ! セレスティアか!」
純粋な驚きに身を委ねた彼だが、直後、困惑もあらわに視線をさまよわせた。
「い、一体……どうしたのじゃ? いきなり……。それに、そのような、なりにて……」
と、思い付きを得た様子で顎を上げる。
「よもや……イブリール帝より、離縁されたのではありまいな?」
国政のみならず、世界情勢の一切を把握していない愚かな男らしい、何とも哀れな推理である。
まあ、隣国の皇帝の元へ嫁がせたはずの王女が、粗末な平民の身なりをして突如現れたのだから、そのように考え至るのも無理はないかもしれないが。
……つまりは、正規な手続きを経ての帰国でなく、何かしらの事情によって、公にならない形で脱出……あるいは放逐されたのではないかと推察したのである。
しかし、バルモア三世にとって、とても歓迎などできるものでない。
「お、王妃の反対を押し切ってまで嫁いだ身で、今更帰国をこいねごうても……。ああ、そうじゃ、ゼルフィードに……」
バルモア三世は、ティアモラの至宝たる大神官が謀殺された大事も知らずにいるのだ。
それどころか、卑小な身にとって、我が子の苦難よりも、レスニア王妃の顔色がより案じられるらしい。
わかっていたものの、セルアは今更の情けなさを強いられた。
「うむっ。そうじゃ! 王妃には内密にて、祖父殿の元へ参るが良い。ゼルフィードなら、そなたを匿うてくれるはず……」
隣国の皇族になったはずの王女の帰国を公にせずに隠しおおせると思っている姑息さには呆れるばかりだが、彼は妙案だと悦に入っていた。
ローディアナ神殿に潜むのなら、充分な暮らしは保証されるだろうし、王妃たちの感情を逆撫でせずに済むと、本気で思っている。
「お父さま」
セルアは父の言葉を遮った。
「わたくしは、レスヴィック陛下の妃として、今もその立場を安堵されております」
ちらり……と、背後のモルティスに視線を向けて告げる。
心得た副元帥は、その場にて皇族への最敬礼を示した。
途端、彼が誰かはわからないまでにも、娘が皇妃として相応の処遇を受けたままであると理解して、バルモア三世は胸を撫で下ろしつつ深い息を吐く。
心ならずも冷遇して来た娘への負い目や同情はあっても、我が身可愛さがより強いと、その態度が物語っていた。
傍観するモルティスは、湧き上がる嫌悪感に表情を歪める。
彼にとって、この上ない尊愛の対象である神聖なる国母陛下の、これが実父かと、唾棄する思いを禁じ得ない。
よくもまあ、ここまで卑小な男から、偉大な娘が産まれたものだと、心底神の奇跡に感謝し、畏敬を抱いた。




