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「その御方が不意の病でお倒れになりなすってねぇ」
突然の病で倒れるのは、いっそ旅の常だ。
「その時、たまたま居合わせたお客のお一人が、このお薬を差し出されまして、そうおおせになられたんで」
気付かないふりをして、各国の主要人物たちが擦れ違うのすら、この宿でなら珍しくないだろう。
たまたまの偶然で、病人としての巡り合わせがあったとしても不思議でないのだ。
「御病人は、頂いたお薬で、みるみるお元気になられましたよ」
主人は懐かしそうに語り続ける。
「御恩人の御方は、そのままお薬をあっしにお渡しくださいまして。これから先も、そうした巡り合わせの御方に用いて差し上げると良いと、まあ……」
姉弟は喉を鳴らす。
そのような酔狂な物言いをする人間を、彼らは知っていた。
「し、……して、その御仁はどのような?」
果たして……。
「御客さん方と同じ、そりゃあ、見事な黒髪の、小さなお孫さんをお連れのお商売人さんでしたよ。……まあ、このようなお珍しいお薬を持たれるぐらいだ。多分、訳ありの御方だったんでございましょうがね」
(大叔父上!)
サナレーン侯爵とファウラは、胸の中で絶叫した。
レヴァンス子爵に相違ない。
そして、連れ歩いていた孫とは、恐らくレスヴィックだったのだろう。
「以来、このお薬には、大層お世話になりましたよ。あっしの孫娘も、生命をお救い頂いた一人でござんす」
言いながら、主人は箱の蓋を開いた。
残されているのは、たった一粒の丸薬だ。
「これが最後の一つ。……そちらの御婦人は、神さまの祝福を受けるべき御方なんでございましょう。どうぞ、差し上げてくださいまし」
「あ……主っ……!」
貴重な宝の、最後の一つを、彼はこうして、見ず知らずの……いっそ胡散臭い旅人に惜しげもなく与えようとしている。
それは、亡きレヴァンス子爵の言葉に従っての行為に外ならない。
ローディアナ神を信仰し、その導きに全て、意味があると信じてだ。
この薬丹で、どれほどの人が救われたのだろう。
どれほどの運命が変わったのだろう。
(大叔父上!)
「神の園」へ旅立って久しい尊属へ、サナレーン侯爵は、感謝を新たにする。
まさか、このような場面で、あの慕わしい大叔父に救われる未来が訪れるなど、かつての日にどうして予想し得ただろうか?
ことあるごとに小言ばかりをさえずっていた不徳が、悔やまれてならない。
「感謝いたしますわ。御主人っ」
感極まるサナレーン侯爵の傍らで、いち早く自らを取り戻したファウラが心から告げる。
そして、更に詰め寄った。
「お願いがございます。この小箱を……お預かりさせて頂けませんでしょうか?」
奇妙な形で遭遇した、大叔父の遺品を欲した訳では断じてない。
彼女は本心から、「借り受ける」つもりでいるのだ。
そして、家伝の薬丹を新たに詰め込み、返納しようと考えている。
しかし、身元すら明かでない旅人に、見るからに高価であろう工芸品をあっさり差し出す酔狂者は、そう多くないだろう。
預けると言っても、返る保証などないも同然なのだ。
しかし……。
「ようがすよ」
予想に反して、主人はかけらほどの躊躇もなく快諾した。
「これも巡り合わせの妙、とやらでござんしょう。お持ちくだせえ」
ファウラは再度の感謝を告げる。
この主人は、やはり彼女が看過した通りの、傑物に相違なかった。
(何と優れた人材が……この広い大地には埋もれていることか……)
サナレーン侯爵は脱帽する。
亡き大叔父や、彼に似て放浪癖のある弟から、そうした話しを聞いてはいても、いざ自分が遭遇してはじめて、遠き「黎明のかんなぎ」に与えられた言葉の重みを理解する。
皇室の者が、大陸の隅々まで見聞する意味は、そこにこそあるのだろう。
主人は挨拶を残して、部屋を後にした。
扉が閉ざされるのも待たずに、今度はファウラが口移しで、アレノーワに秘薬を与える。
恐るべき即効性を有する薬丹だ。
さして時をかけず、アレノーワは、それなりの回復を見せるに違いない。
ただ、哀れながら、ゆっくり養生させられないため、明日も夜明けと共に厳しい移動を開始しなければならなかった。
「今ごろ……大威張りで見下ろしていらっしゃいましょうね」
不意に、ファウラはそうつぶやく。
略された主語は、レヴァンス子爵……つまりは、大叔父だ。
「……」
サナレーン侯爵は、苦笑してうなずく。
目に、見えるようだった。
「とんでもない借りを作ってしまったものです……。いつかの未来、どれほど大仰に言い立てられましょうか……」
彼は苦笑する。
「過去への借りは、未来へ返せばよろしいのです。……違いますか?」
賢しき巫女は、真理を告げた。
サナレーン侯爵は、わずかに喉を鳴らし、そして……同意する。
その、通りだった。
多分、その積み重ねが、神の教えの尊さを、大地に広めるのだろう。
積み重ねる想いの深さが、人の温もりの大切さを、遙か遠くへ伝えるのだろう。
巡るいたわりはきっと、より良い明日を築く原動力になるはずだった。
翌朝、かろうじて意識を取り戻したアレノーワを連れ、一行は出立した。
身の処し方に長けた主人は何も言わず、それを見送る。
その半日後、タスト公爵の手の者が捜査に来たが、彼は如才なくかわし、常と変わらぬ日常を、この先も重ね続けるのだ。




