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その困惑を充分理解した上で、セルアはしっかりとうなずく。
「……聖櫃、聖鏡……そして、この聖杯……」
残された神器は、聖杯のみ。
すでに聖櫃と聖鏡は、レスヴィックの延命のために駆使した。
神器は、ただ一度のみ活用できる奇跡を封じた宝であると、顕現の際に、セルアは無言の示唆を神より受けていた。
気が遠くなるほど長い歳月、先祖たちが代々守り続けた三種全て自らが用い、有していた力を消滅させてしまうのに、後ろめたさがないではない。
けれど、これも神の導きだと、今は信じるだけだ。
いや、それに縋り付きたいのが本音である。
「自らは神の恩寵を受けし王女なのだ」と、そう考える以外になかった。
逡巡は今更だ。
もう後戻りはできないのだから。
「それらの駆使を……許されし者……」
恐れ多さに萎縮する身を、セルアは必死に律する。
畏みよりもなお、レスヴィックを思慕する想いは強く、彼のためになせる全てを厭うはずもなかった。
レスヴィックを愛している。
神への忠誠心と秤にかけて……恐らく、より以上に!
「せい、はい……ですと?」
圧倒される一同を代表して、サナレーン侯爵が復唱する。
セルアはうなずき、常に携帯している母の形見である守り刀を取り出した。
誕生の瞬間に、自らの性の象徴を奪ったあの凶器である。
セルアは躊躇せず、左手首に刃先を滑らせた。
「妃殿下っ!」
守り刀を戻すと、聖杯を右手に持ち替え、滴る血液を中へと注ぎ込む。
レスヴィックの傷から溢れ出、セルアの手を染めていた分も共に、だ。
途端、聖杯より激しい輝きが起こった。
レスヴィック延命の際の聖鏡が放ったそれと、全く同質のものである。
誰もが必死に目を守る中、セルアは動じずに発光する聖杯を両手で戴き、神をあおいだ。
かつて……祖父より神器を継承した折と同じく、手首の傷が解けるように消えて行く。
レスヴィックとセルアの二人の血液によって満たされた聖杯は、どうした奇跡か、完璧な球体となって、掌から少し浮き上がり、煌めきを発し続けた。
瑞光である。
セルアは、愛しげにそれを見詰める。
ややして球体は輝きを失い、セルアの掌へと落ちた。
「……血の一滴、髪の一筋、爪や皮膚の一かけら……」
セルアの発する奇妙なつぶやきに、誰もが瞬く。
「ほんの少しでよろしいのです。その方の肉体を構成する一部分をこの聖杯に委ね、後、わたくしの……神器の継承者の血液を注ぎ込むことによって……神は、類い希なる奇跡をお与えくださいます」
鬼気迫る形相だった。
「聖杯」。
この言葉は、遠い時代、「聖なる子宮」、そして「聖なる血脈」の同義語でもあったと言う。
正に今、セルアが告げた神の奇跡はそれを体現するものに相違なかった。
一同は、圧倒のまま、喉を鳴らす。
「もうお一人の陛下を……この世に誕生させ、後継者となって頂きます」
途端、どよめきが走った。
「なっ……」
「それは一体っ」
「もうお一人の、陛下ですと?」
「神の……奇跡と?」
訳がわからないのも当然だろう。
つまり、この聖杯は、クローン養成カプセルである訳だ。
培養のための一切を、セルアの血液によって賄う仕組みである。
ここで敢えて言及しなかったが、生育が進むたび、セルアは文字通り生命の源となる血液を供給しなければならない。
我が身を犠牲にして、事実上、我が子と呼んではばかりない生命を育むのだ。
「……陛下に生き写しの皇子を……神がお与えくださるとお考えください」
「そ、れは……」
「しかし……」
願ってもない僥倖であっても、たまらない畏怖を覚えるのは当然だろう。
セルアは、そんな重鎮たちの気持ちを百も承知の上で、婉然と微笑した。
これが虚勢に過ぎないと、他の誰もが理解しなくとも、セルア自身がわかっている。
それでも、演じ切らなくてはならないのだ。
愛しい夫のために……。
いや、自分自身の希望……野望のために!




