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「さあ、陛下」
背後の紳士に促されて、少年ははにかみつつもセルアの手を取り、キスをする。
「……来てくれて、ありがとうございます。……ずっと、姫に……セルアに会いたくて、爺にわがままを言って、こっそりここまで来てしまいました」
「……嬉しゅうございます。陛下……」
セルアは、心からそう応えた。
それにしても、忍びの出歩きに慣れている風情だ。
先ほどの紳士のうそぶきようからも、こうした行為は珍しくないようである。
「全くもうっ! 宰相閣下が、どれほど案じられておいでか! お叱りを受けるのは、当主の私なのですよ!」
サナレーン侯爵が、再度目上の親族を叱り付ける。
セルアは彼らに目を向けた。
途端、気を取り直したサナレーン侯爵は、姿勢を正して大叔父を示す。
「……亡き祖父の弟に当たります、レヴァンス子爵にございます。……恐れ多くも陛下の御養育係りを勤めておりまして……」
「お初に御意を得ます。麗しい内親王殿下」
レヴァンス子爵は、従孫(兄弟の孫)の言葉を遮るように、恭しく一礼した。
「とても嬉しい驚きでした。このような行脚は、珍しくないようですが?」
何とも気持ちの良い人物である。
セルアの口調も自然と気安いものとなる。
「は。……そもそも、当家は「黎明のかんなぎ」さまより、格別な御沙汰を賜っておりましてな。「皇室に生まれる子供たちを、正しく導くべし。大陸の隅々まで多くを見聞させ、人の営みの真実を、歪みのない形で教えるべし」と、ありがたくも……」
「だからと言って、今上陛下を、ひそかに連れ出すなど言語道断です! ああ……急ぎ、閣下に御報告をせねば……」
レヴァンス子爵の告げるそれは、実に素晴らしい計らいだろうが、サナレーン侯爵は大混乱だ。
実際のところ、全く以て常識的な反応だろう。
「なぁに、案ずるな。あやつとて、わしの行動パターンぐらい、十二分に把握できておるて」
宰相をあやつと呼ぶのは、よほど親しい間柄なのだろうと、セルアは彼らの語らいから多くの情報を読み取る。
それにしても、「黎明のかんなぎ」は、驚くほど柔軟で賢しい質の主だったようだ。
一国を担う家の子供たちに、行脚を奨励するなど、ティアモラでは考えられない。
なるほど。忍びの旅に慣れた出で立ちであるのも当然だろう。
「セルア。長旅で疲れたでしょう? ゆっくり休んでください。僕が殿居を勤めます」
「まあ……陛下……」
彼とて、宮城からここで遠い旅をして来ているはずなのに、何とも健気な言いようである。
そして、セルアを最上の貴婦人として尊重する姿勢は見事だ。
セルアの中で、未来の夫の評価が一層上がる。
まだ対面する前から、サナレーン侯爵の忠誠ぶりを見て、ある程度の心構えはしていたつもりだったが、より以上の器量の主であるらしい。
セルアは、たまらなく彼を好ましく思った。
そして、その感情は、高まる一方だ。
「……お守り頂くなど、恐れ多うございます。それよりも、わたくしに、イブリールのお話しを、してくださいませ」
「イブリールの?」
「はい」
セルアは、満面の笑みを浮かべてうなずく。
「わたくしの新しい祖国にございます。少しでも多くを知り、陛下の御ためになるよう、働きとうございますから」
本心からの言葉だ。
(わたくしは……この少年の支えとなるため、生を受けたのだ……)
歓喜の確信が、身の内に走っていた。
(わたくしの全てを……陛下の御ために捧げよう……。そして、この方が、名君となるためになら、いかなる尽力も惜しむまい!)
強く、強くそう誓う。
レスヴィックのために!
彼が、賢帝として立つために!
自らは存在する。
……その想いが嬉しくて、涙が堪えられない。
(神よ……)
遙かなる存在に、セルアは深い感謝を捧げた。
「生き甲斐」。
「生涯を捧げるに足る目標」。
それを得られる以上の喜びはない。
だが。
歓喜の想いとは裏腹に、たまらない焦燥と切なさもある。
自分は、彼の踏み台となるためにやって来た人間だ。
男として生まれながら、女として生きる道を強いられ、実際に嫁ぐに至っても、当然ながら子を設ける術がない。
幼君の後見を兼ねた、暫定の伴侶でしかないのである。
サナレーン侯爵は、謝礼の一つとして、役目を終えた後に、一青年として新たな人生を送るに足る環境を用意する旨を視野に入れていると言ったが、実際には、「そうして欲しい」との促しでもあったのだろう。
つまり、いくら愛しく思おうとも、少年が立派に成長した暁、自分が必要とされなくなったその時に、伴侶の地位は返上するのが道理なのだ。
そして、レスヴィックは、彼に相応しい、真実の伴侶を、新たに迎える。
(……それでも、良い……)
気負いでも諦めでもなく、セルアはそう得心した。
この少年を愛しく想うからこそ。
(わたくしの持てる力の全てで……この方を、立派に……お育て申し上げよう!)
「セルア? どうしたの? どこか、痛いの?」
涙する花嫁を案じて、レスヴィックは、懸命に尋ねる。
「いいえ……いいえ……」
たまらず、セルアは少年を抱き締めた。
「……心より、陛下にお仕え申し上げます……。わたくしの……生涯の忠誠を……陛下に捧げ……て……」
(感謝いたします……神よ……。わたくしに、生きる意味と……目的を、お与えくださって……)
ちょっと戸惑った様子だったが、レスヴィックも、すぐさま小さな両手で花嫁を抱き返す。
「……セルアは、とても……温かくて、気持ち良い……」
彼は、嬉しそうに微笑して目を閉じた。
誰もがそれを微笑ましげに見詰める。
神の導きによる絆の賜物だろうか?
二人は生まれた時からそうしていたかのように親しく時を過ごす。
夜も同衾し、宮城への道中も馬車では隣同士に、騎行の際は、一頭の馬に同乗し、と、睦まじい限りだった。
途中、立ち寄った休憩所や宿で、地元の人々と交流する時は、仲の良い姉弟として扱われたものだ。
始終笑い通しの、楽しいことこの上ない旅となった。




