第三十話「新しい旅へ」
第三十話「新しい旅へ」
出発の朝は曇っていた。
雨になるかもしれないと宿の主人は言ったが、空は完全には閉じていなかった。雲の切れ間から、薄い光が差し込んでいる。
荷物をまとめた。
三ヶ月前に村を出たときよりも荷物は増えていた。装備も増えている。
だが、重さの感じ方が違った。
あのときは逃げるように背負っていた。今は違う。
帰る場所があると知った上で背負っている。
同じ重さが、少し軽い。
出発の直前、エリアが来た。
護衛も連れず、早朝の王都を一人で歩いてきたらしい。
「見送りに来ました」
「ありがとうございます」
「行き先は?」
「北方に寄ります。その後は流れで」
「流れで、ですか」
「行きたい場所があれば行きます。依頼があれば受けます。帰りたくなったら戻ります」
「帰りたくなったら、ですか」
「はい」
エリアは少しだけ目を伏せた。
「……いつでも帰ってきなさい」
「はい」
「待っています」
「わかっています」
「わかっているなら、早く帰ってきなさい」
「矛盾していますね」
「矛盾していません。わかっていても言いたいのです」
エリアは深く息を吸った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「必ず帰ってきなさい」
「約束します」
エリアは一瞬だけ唇を噛み、そして懐から小さな布袋を取り出した。
「これを持っていなさい」
「中は?」
「今は開けないで。北方に着いてから開けてください」
「理由は?」
「今開けたら、私が泣きます」
「……わかりました」
布袋を荷物にしまう。
「行きなさい。これ以上いると引き止めます」
「引き止めないんですか」
「本当は引き止めたい。でも、引き止めません」
「ありがとうございます」
「礼はいいです。帰ってきたときに聞きます」
王都の門で、セラとライラが待っていた。
三人で歩き出す。
振り返ると、王都は朝の光に包まれていた。
エリアの姿はもう見えない。
だが、そこにいることはわかっていた。
だから振り返る必要はなかった。
街道を北へ向かう。
空は次第に晴れていった。
セラが言う。
「俺は晴れ男だからな」
「根拠は?」
「経験だ」
「それは統計ではなく感覚です」
「運も実力だ」
ライラが静かに言う。
「それは定義が曖昧です」
「お前は本当に細かいな」
「正確なだけです」
一日歩き、宿に泊まる。
夕食の席でセラが言った。
「村を出た日のこと、覚えてるか」
「覚えています」
「どうだった」
「怖かったです。でも、行くしかなかった」
「今は?」
少し間を置く。
「今は、行きたいから行っています」
「それが違いだな」
セラは茶を飲んだ。
「最初にお前を面白いと思った理由もそれだ。行くしかない目なのに、どこか行きたそうだった」
「今も同じですか」
「同じだ。ただ理由が変わっただけだ」
ライラが言う。
「千年前のヴェイン様も同じ目をしていました」
「似ている、ということですか」
「はい。行かされる目ではなく、行きたい目でした」
三日後、北方に着いた。
ガルナの街は、以前より落ち着いていた。
バルドが門に立っていた。
「また来たか」
「来ました」
「元気そうだな」
「元気です」
バルドの後ろに、少年がいた。
まだ幼さの残る顔だが、目だけは真っ直ぐだった。
「貴方がアレクさんですか」
「アレクでいい」
「……アレクさん」
「覚えています。助けた子どもの一人ですね」
「はい」
少年は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。あのときのこと、ずっと覚えていました」
「礼はいりません」
「でも、言いたかったんです」
顔を上げた少年の目は、まっすぐだった。
セラが言った。
「いい目だな」
バルドも頷く。
「お前と同じだ」
夜、バルドと酒を飲む。
「次はどこだ」
「まだ決めていません」
「お前らしいな」
「バルドさんはここに?」
「しばらくはな。ここが俺の場所だ」
「そうですか」
「また来い」
「はい」
翌朝、ガルナを出る。
少年が見送りに来ていた。
「また会いましょう」
「また会いましょう」
街道を歩く。
その途中でセラが言った。
「東の山脈の向こうに遺跡があるらしい」
「どこで聞いたんですか」
「昨日の酒場だ」
「早いですね」
「冒険者だからな」
「行きますか」
「行くぞ」
「行きましょう」とライラが言った。
その途中、布袋を思い出した。
エリアの手紙。
開く。
そこには短く、しかし確かに書かれていた。
「貴方の隣で生きたい」
読み終えたあと、しばらく言葉が出なかった。
「顔が緩んでいる」とセラが言った。
「そうですか」
「さっきよりだいぶな」
ライラが静かに言う。
「帰る理由が増えましたね」
「元からあります」
「それでも増えます」
やがて東の山脈が見えてきた。
道は細くなり、森が深くなる。
足元に、小さな花が咲いていた。
ウィンドベル。
どこにでも咲く、目立たない花。
「これ、エリアの花と同じです」
「どこにでもあるのか」
「ええ」
ライラが言う。
「見えていなかっただけです」
「旅をすると見えるものが変わるな」
「それが旅です」
夕暮れ、山の麓の村に泊まる。
夜、窓から空を見る。
三つの月。
王都も、北方も、村も同じ月の下にある。
すべては一本の線でつながっていた。
翌朝。
三人で山へ向かう。
セラが言う。
「行くぞ」
「行きましょう」
「行きます」
三つの足音が重なる。
山の入口に立つ。
その先に、遺跡があった。
まだ見えない未来。
だが、確かにそこにある。
歩けばわかる。
行けばわかる。
世界はそうやってできている。
アレクは思う。
捨てられたことに意味はない。
だが、その後に出会ったすべてには意味があった。
それは与えられたものではなく、自分で作ったものだ。
「行くぞ」
「行きましょう」
「行きます」
三人は山へ踏み込んだ。
足音が消えていく。
しかし旅は消えない。
世界は続く。
そして、それでいい。
――完――




