【第21話】嵐のち晴れ
スピーカーから、琥珀のギターがもう一度流れ始めた。
録音の最初に、息を吸う音が入っていた。
ほんの少し前の、自分の呼吸。
琥珀はそれを聞きながら、ギターをケースへ収めた。
留め金を一つ掛け損ね、震える指でやり直す。
ミナトの通信機が鳴った。
『女王が来た。移動して』
ソラの声だった。
「分かった」
ミナトが入口へ向かう。
琥珀もケースを背負い、ガジュをバッグへ入れた。
「……ごめん。少し、ここにいて」
『かしこまりました』
ファスナーを閉め切らず、肩へ掛ける。
振り返ると、誰もいない椅子の前で、放送のランプが点いていた。
歌は続いている。
「コハク、こっちだ」
ミナトがエレベーターの扉を押さえていた。
琥珀は駆け込んだ。
*
地表側の乗り場で、レギーナは足を止めた。
エレベーターの脇に、テープの跡が残っている。
指の腹でなぞる。
まだ、新しかった。
館内には、ギターと歌声が響いている。
「二人、ここに残れ」
騎士が左右へ分かれた。
残る二人を伴い、レギーナはエレベーターへ入った。
扉が閉まる。
ほぼ同時に、もう一方の箱が、塔の下方で動き始めた。
*
床が琥珀の足を押し上げた。
上っている。
地表へ、地下の街へ戻っている。
琥珀は手すりにつかまり、表示灯を見上げた。
ミナトも同じものを見ていた。
二人が離脱したあと、ソラたちが女王の退路を断つ。
それから、C班が塔を落とす。
革命派は二百二十七名。
その中から選ばれた八名が、C班として外で待っている。周辺にも、仲間が配置されていた。
ミナトは通信機を握り直した。
――万が一、爆破に失敗しても、すぐには追ってこられない。
ソラはそう説明した。
暴風の中で塔を昇るのは難しい。もし目が来て晴れても、外階段と梯子では時間がかかる。
その間に、逃げる。
サイレンが鳴った。
ミナトは通信機を持ち上げた。
『目が来る!』
ソラの声が、先に飛び込んできた。
『速すぎる。もうタワーの近くだ!』
窓の向こうで、灰色の流れが薄くなった。
飛び交っていた埃が消え、赤い鉄骨の輪郭が見えてくる。
琥珀は窓へ目を向けた。
朝焼けだった。
頭上に広がる東京の窓が、一つずつ光を返していた。
ひび割れたガラスも、折れた看板も、薄い金色を帯びている。
初めてこの景色を見た時、綺麗だと思った。
いまは、晴れてほしくなかった。
ミナトが、何か短く呟いた。
その声が聞き取れるほど、外の風は弱まっていた。
*
「やはり、来たか」
レギーナはガラス張りの外を見た。
それから内壁へ手を置き、耳を寄せた。
モーターの唸り。
ワイヤーを伝わる振動。
接近してくる、もう一つの箱の音。
スピーカーの少女は、まだ歌っている。
先ほどと同じ箇所で、同じように息を継いだ。
レギーナは顔を上げた。
「茶番は、ここまでだ」
彼女の指が、緊急停止ボタンを深く押し込んだ。
*
金属の悲鳴が響く。
突然の急制動。
ミナトが手すりへ肩をぶつけた。
琥珀は膝を折り、ケースの重さに引かれて座り込む。
耳を刺す金属音が、止まる。
照明が消え、非常灯の赤に変わる。
「ソラ!」
ミナトが呼んだ。
『こっちじゃない。停止が掛かってる!』
ミナトは操作盤を押した。
扉は開かない。
表示灯も動かなかった。
琥珀はバッグを胸へ引き寄せた。
中から、ガジュの声がした。
『異常停止を検知しました。係員への連絡を――接続できません』
箱の外で、何かが鳴った。
隣から、扉を開くような音。
続いて、鉄骨を踏む足音がした。
ミナトが上を見た。
天井から、重いものを叩きつけるような衝撃音が降った。
同時に、へこんだ。
琥珀は息を呑んだ。
もう一度、衝撃。
継ぎ目から細かな埃が落ちた。
「壁に寄れ」
ミナトが琥珀の腕を引いた。
自分の後ろへ押しやり、腰のペンデュラムに手を掛ける。
金属が裂けた。
白い光が、天井から差し込んだ。
その隙間に、金属の爪が掛かった。
形は手だった。
しかし、曲がっていく天井板が薄い紙のように寄せられていく。
そして、穴の向こうに目。
レギーナが、こちらを見下ろしていた。
横からも、衝撃が来た。
扉の端が内側へ曲がる。
鋼の指が、その間へ入った。
ミナトが身体の向きを変えた。
琥珀を二つの入口から遠ざけようとした、その一瞬だった。
白い軍服が、目の前へ降りた。
ミナトは腕を上げた。
間に合わなかった。
肩をつかまれた。
「重大犯罪人め」
レギーナの声がした。
ミナトの足が床を離れ、背中が展望窓へ叩きつけられる。
ガラスに亀裂が走った。
琥珀は手を伸ばした。
もう一度、叩きつけられた身体が、窓を破った。
飛び出していく。
彼の手が、窓枠をかすめた。
指は、掛からなかった。
「ミナト!」
声が出た。
出そうと思う前に、喉から発せられていた。
琥珀は割れた窓へ走った。
バッグの紐を後ろからつかまれ、身体が止まる。
「ミナト――!」
届かなかった。
墜ちていく。彼が小さくなる。
もう、誰も。
ヤマサンも、ガジュも。
ミナトまで、いなくならないで。
琥珀は窓の外へ手を伸ばした。
目の前に、ガラスの粉が散った。
惰性で生きていた。
シェルターの中で、次の日が来ても、何をしたいのか分からなかった。
その自分が、さっき歌った。
誰かに聴いてほしいと思った。
何度も救われた。
ミナトが、そこにいたから。
いろんなミナトが見えてきた。
もっと知りたくなった。
これからだって。
もっと一緒にいたいよ。
ねぇ、帰る場所が欲しいよ。
まだ、途中だよ。
なのに。なのに!
*
空が回っていた。
ミナトは左手を動かそうとした。
肩に痛みが走り、息が途切れる。
ペンデュラムの柄が、指先をかすめた。
握れない。
赤い塔が遠ざかる。
頭の中では、なぜか別の崖が見えていた。
仔猫が鳴いていた。
足を滑らせたのか、崖下からそれは聴こえていた。
自分なら行ける。
ミナトはそう思って、縁へ足を掛けた。
兄の手が、腕をつかんだ。
放せと言った。
あいつが死んじゃうだろ、と怒鳴った。
「お前がそいつを守りたいように、俺もお前を守りたいんだ」
カイトは、手を放さなかった。
ミナトは兄を殴った。
殴ったあとで、拳が痛くなった。
兄は一度も、自分を殴ったことがなかったのに。
あの時の手が、まだ腕にある気がした。
兄さん。
謝っただろうか。
あのあと、ちゃんと言っただろうか。
鋭い羽音がした。
記憶の中には、なかった音だった。
銀色の機体が、視界へ滑り込んだ。
*
ホバーバイクが、塔の下へ急降下した。
ミナトを追い越しかけたところで機首を上げ、落ちていく身体に速度を合わせる。
操縦席から、腕が伸びた。
上着をつかまれた。
ミナトの身体が横へ引かれ、機体にぶつかった。
男が腕を回し、逃がすまいと抱え込む。
ファンの音が跳ね上がった。
機体が大きく沈んだ。
それから、ゆっくりと落下が弱まった。
ミナトは咳き込んだ。
口の中に、血の味がした。
「……たく。なにやってんだよ」
耳元で声がした。
ソラだった。
ミナトは顔を上げようとした。
できずに、機体の縁へ額を預ける。
「男は……乗せないって」
「今、それ言う?」
ソラの声が、少し裏返った。
抱えている腕は、震えていた。
ミナトの口元が動いた。
笑ったつもりだった。
「ありがと……」
「喋るな。つかまってろ」
機体が傾き、塔から距離を取った。
ミナトは右手を伸ばした。
ソラの上着を、どうにか握る。
まだ、生きていた。
そう分かった途端、顔を上げた。
「コハク……」
塔を見上げる。
窓を破られた箱が、鉄骨の間に止まっている。その少し下で、白い影が動いていた。
黒いドレスが、その前を歩かされていた。
レギーナが、琥珀を連れている。
外階段を、トップデッキの方へ。
ミナトは身体を起こそうとした。
ソラの腕が、胸を押さえた。
「動くな。落ちる」
言い返す息がなかった。
遠くで、琥珀が顔を上げた。
銀色の機体が見えたのだろうか。
ミナトは手を上げようとした。
ソラの上着から、指を離せなかった。
黒い姿が、鉄骨の陰へ入った。
続いて、白い軍服も見えなくなった。
塔のスピーカーからは、まだ琥珀の歌が聞こえていた。




