【第20話】反逆の歌姫、決戦の日
決戦の日。
ミナトが背中からケースを下ろした。
琥珀は、その形を見た時から動けなくなっていた。
留め金が外れる。
蓋が開き、保護用の布がめくられた。
白いギターだった。
金色の金具。小さな胴。
母が、琥珀に遺してくれた一本。
ミナトは何も言わず、ケースごと向きを変えた。
琥珀は膝をついた。
指先を、弦に触れない場所へ置く。
白い塗装は冷たかった。
抱き上げる。
右腕が、胴の縁へ収まった。
左手が、ネックを握った。
何年もそうしてきた位置に、身体が落ち着いた。
「……どうやって」
ガジュ丸へ囁く。
『どのように回収されたのでしょう。目は、まだ来ていませんが』
ミナトは肩をすくめた。
「モグラだからな。たまには地上にも顔を出すさ」
琥珀が顔を上げると、少しだけ笑った。
「外の連中に手を借りたんだ。風の中で動くための装備もある」
その手の甲に、新しい擦り傷があった。
琥珀はギターを抱え直した。
嬉しいのに、胸が苦しかった。
「……また、取りに行ってくれたの」
ミナトが頷く。
「持ってくるって、言っただろ」
ヤマサンが笑った顔が浮かんだ。
あの日、自分が欲しいと言ったものが、いま膝にある。
指で弦を一本、弾いた。
音が、少し低かった。
ペグを回し、もう一度鳴らす。
隣の弦も確かめた。
ミナトは、ケースのそばにしゃがんで待っていた。
六本の音が揃ったところで、琥珀は手を止めた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
ギターを見たまま言ったので、届いたかどうかは分からなかった。
ミナトが、空のケースを引き寄せた。
「行ける?」
琥珀は頷いた。
まだ怖かった。
けれど、そのギターを置いていくつもりはなかった。
バイクに乗り、ミナトの背へ手を回す。
ギターの重さが、背中にある。
走り出す前に、琥珀は額を彼の上着へ押し当てた。
温かかった。
エンジンの振動とは別に、そこにいる人の身体が動いた。
「わたし、歌いたい」
琥珀は腕に力を込めた。
いつもよりも強く。
ミナトは聞き返さなかった。回された手に自分の手を重ね、しっかりと合図を送った。
ありがとう。
ミナトはバイクを走らせた。
通路の灯りが、二人の影を何度も伸ばし、追い越した。
*
東京タワーの地下フロアには、足音がよく響いた。
ミナトが先を歩く。
琥珀はギターのケースが壁に当たらないよう、身体の向きを変えながらついていった。
エレベーターが二基、並んでいた。
片方に、小さな紙が貼ってある。
こっち。
ミナトが素早く剥がした。
「見つかったらどうすんだよ」
声は低かったが、ソラに言う時の調子だった。こんなとこまで余裕を見せつける彼の表情が浮かび、琥珀は少しだけ息をつけた。
二人で乗り込む。
ガジュ丸が最後に入り、扉が閉まった。
箱が動き出した。
下へ。
地下から、地表を越え、逆さまの塔の先へ。
急に身体が軽くなった。
琥珀は手すりをつかむ。
床が足の裏から逃げていくような感覚が続いた。
ミナトも手すりを握っていた。
階数表示を見上げ、その動きを確かめている。
歌い終えたら、録音へ切り替える。
放送を続けたまま、戻りのエレベーターへ乗る。
ソラから聞いた段取りを、ミナトは頭の中で繰り返した。
改造された二基のエレベーターは、互いに釣り合うように繋がっている。女王が下りてくる時、こちらは上へ戻る。
そのためにも、まずは歌を届けなければならない。
金属が軋んだ。
箱が減速し、足に重さが戻った。琥珀は膝を曲げ、揺れが収まるのを待った。
扉が開いた。
トップデッキの放送ブースには、椅子が一つあった。マイクと、操作卓。卓上の小さなランプは、まだ消えていた。
琥珀は入口で立ち止まった。
ここから、あの放送が流れた。
ヤマサン。
資源を浪費し、無駄な労を費やしていた者。
平坦な声が、頭の中で再生された。
琥珀は椅子を見た。
座ろうとして、足が動かなかった。
「コハク」
ミナトが呼んだ。
「ケース、こっちに置けるよ」
床の空いた場所を指している。
琥珀は頷き、そこまで歩いた。
ケースを下ろす。留め金を外す。
さっきと同じ順番で布をめくり、ギターを抱き上げた。
ミナトは操作卓へ向かった。
一花に教わった手順を確かめながら、設備を起動していく。
琥珀は椅子に座った。
膝にギターを置き、足の位置を直した。
ガジュ丸が目の前へ浮かんだ。
『音声入力の確認ができました』
丁寧な声。画面には、マイクの表示がある。
ミナトがこちらを見た。
親指を立てる。
琥珀は息を吸った。
喉が閉じた。
口を開けても、何も出てこなかった。
指先が震え、弦に触れて小さな雑音が鳴る。
ミナトの手が、操作卓の上で止まった。
歌うと、自分で言った。
ここまで連れてきてもらった。
外には、この歌を合図に動く人たちがいる。
待たせている。
そう思うと、ますます息が浅くなった。
琥珀はガジュ丸を見た。
羊の顔が、こちらを向いている。
前のガジュなら、何と言っただろう。
考えかけて、やめた。
いま、ここにいるガジュに、声を掛けた。
「……まだ、出ない」
『はい』
ガジュが答えた。
それだけだった。
琥珀は唇を結び、息を吐いた。
丘では、足の指からだった。
拍子を取って、息を吐いて、ひとつだけ声を置いた。
ヤマサンのピアノが、拾ってくれた。
いま、ピアノはない。
けれど膝には、ギターがある。
左手で、よく知っている形を作った。
右手の親指で、低い弦を弾く。
一音、鳴った。
続けて、細い弦を弾く。
そこへ、もう一音。
小さなアルペジオが、ブースの中へ広がった。
この音を、知っている。
眠れない夜に、シェルターの中で何度も弾いた。
誰に聴かせる予定もなく、ただ、部屋が静かすぎたから。
もう一度、同じ音を並べた。
ミナトは何も言わなかった。
操作卓から少し身を引いて、聴いていた。
琥珀は目を閉じた。
街を全部、思い浮かべようとすると怖かった。
知らない人の顔が、いくらでも増えていく。
だから、一人ずつの顔を思い浮かべた。
籠を抱えていた女性。
もう少し聴いていたかったと、言ってくれた人。
あの続きを、届けたい。
それから、畦に挿してあった白い花を思った。
置いた人の顔は知らない。
でも、その人がきっとどこかで聴いている。
何が起きるかは、分からなかった。
歌ったからといって、誰も死なないとは言えない。
その怖さを、音で消してしまうこともできなかった。
それでも、女王の言葉だけが流れる街に、この音も声も届けたかった。
琥珀は目を開けた。
ミナトを見て、頷いた。
彼の指が動く。
ガジュ丸のディスプレイにマイクONが、表示される。
ギターの音が、わずかに違う響きで耳へ戻ってきた。
もう、届いている。
琥珀は弾く手を止めなかった。
弦が鳴る。
次の息を吸う。
最初の声は、少し掠れた。
それでも、声だった。
*
アークの水田で、一人の女が顔を上げた。
スピーカーから、ギターが聞こえた。
続いて、歌声。
あの子だ。
女は、手にしていた苗を植えてから、腰を伸ばした。
隣の男も、顔を上げていた。
市場で、台車が止まった。
修理場で、工具を握った手が止まった。
部屋の奥にいた子供が、入口へ出てきた。
耳を澄ます人のそばへ、別の人が寄った。
歌声は、初めから強かったわけではない。ギターの音に支えられ、息を継ぐたびに、少しずつ前へ出た。
『鋭気を奮え 今ぞ謀反の時
舵を取れ 檻の舟に乗りて――』
琥珀はマイクを見ていた。
言葉を、誰かへ渡す。
決められた言葉を黙って聞いているだけだった場所へ、自分の声を送る。
最後まで歌いたかった。
そのあとも、生きていたかった。
指が弦を押さえる。
少し震えていたが、音は続いていた。
*
歌が始まる前から、待っていた者たちがいた。
信頼できる相手から、次の相手へ。
作戦の知らせは、声をひそめて渡されていた。
閉じられていた通路の陰から、黒い装備の人影が現れた。
壁に白い円が描かれる。
それを見た男が、上着の下から武器を出した。
遠くで、怒鳴り声が上がった。
劫火の騎士が振り向く。
その背後で、別の人間が動いた。
歌を聴きながら戸口を離れない者もいた。
子供を部屋へ戻す者もいた。
隣の人の手を握り、スピーカーを見上げる者もいた。
同じ声が、それぞれの場所へ届いていた。
琥珀には見えない光景の中で。
ブースには、ミナトがいる。
ガジュがいる。
ガラスの向こうでは、風が塔の骨組みを鳴らしてる。
次の言葉が出た。
次の和音を弾けた。
母の映像にあったような、余裕のある笑顔にはなれなかったけど。それでも、ときどきミナトの顔を見ることはできた。
彼は聴いていた。
初めて、扉の向こうで聴いてくれた時のように。
最後の一節で、息が震えた。
琥珀は弦をゆっくり払った。
音が伸びる。
その音が消えるまで、手を動かさなかった。
ミナトが録音の表示を確かめる。
琥珀へ頷き、再生の準備へと移った。
琥珀はギターを抱いたまま、息を吐いた。
膝が震えていた。
手のひらにも、汗をかいていた。
歌えた。
まだ、何も終わっていない。
それでも、最後まで歌ったのは、自分だった。
*
レギーナは、椅子に座って放送を聴いていた。
最後の弦の音が、部屋に残っている。
埋め込まれた脳内の端末に、各区からの報告が届き始めていた。
白円の標識。
武装した市民。
騎士への攻撃。
レギーナは視線を上げた。
スピーカーは、しばらく沈黙していた。
「……残念だよ、歌姫」
椅子から立つ。
待機していた騎士たちが、一斉に向きを変えた。
軍服の裾を払い、扉へと歩く。
「タワーから逃がすな」




