【第12話】ライダースーツの女
「もう、くったくたの、汗だく大盛つゆだくや……」
ヤマサンが額をぬぐう。口元はしっかり笑っている。ひと息ついたあと、彼は椅子に腰を下ろし指を鍵盤に置いた。
ヤエチカで交換した古びたピアノは数時間をかけ、さらに何人もの手を借りてアークへと運び込まれていた。
たどり着いた先は、あの秘密の丘。人工の朝光に包まれた円形の丘の真ん中に、その黒光りする楽器は静かに鎮座した。
やがて丘にはヤマサンと琥珀の二人だけが残り、〝作戦〟の予行練習が始まる。
最初の一音が広がり、まだ閉じた花々の間をすり抜けていった。
琥珀はピアノの傍らに立ち、深く息を吸い込んだ。ヤマサンだけに聴こえる小さな声で、彼のリズミカルなジャズの音をなぞる。
二人は視線を交わしながらアタック音を重ね、時に技巧を競い、相手にターンを譲る。そんな風に初めてとは思えないほど息の合った音が、呼吸が、互いに溶け合っていた。
琥珀の母はギタリストであり、シンガーでもあった。
彼女は幼い頃から〝一度でいい、母のように誰かと音で心を交わしてみたい〟という憧れを持っていた。
「どうしても」とヤマサンに頼まれ実現した、歌とピアノのセッション。おかげで、二人で音を重ねていく度に彼女は夢を叶えることが出来た喜びをひしひしと感じていた。
次第に声を張り上げていく琥珀。周りにひとり、またひとりと人が集まった事に気付いていない。
誰もが恍惚の表情で耳を傾ける中、一人が拍手を打つと、それが合図のように次々と重なった。
琥珀は振り返り、息を飲む。
喉が震える。
いつの間にか大勢の人に囲まれている――。
琥珀の事情など露ほども知らない観客たちは、次第に拍手を強め、歓喜に沸いた。
すぐに歌が途切れ、わずかな間を置いてピアノの音も止まった。
その時、片付けを終えたミナトが丘へと戻ってきた。彼はすぐに状況を察し、手を振りながら琥珀に声を掛けた。
「大丈夫だよ! 誰も、お前なんて見てないさ!」
突き刺すような一言。
しかしそのぶっきらぼうにも聴こえる言葉が、不思議と琥珀の緊張を冷ました。
そこにはミナトらしい粗雑さと、二人の関係だからこそ滲む温かさがあった。
――――みんなはただ、適当なアドリブを聴いて楽しんでいるだけ。わたし自身を見ている訳じゃない。
ただ、ひとりの少女が歌っている瞬間を観ているだけ。心の奥まで覗かれている訳じゃない。
自分を特別だと勘違いしてた。なんて自分を買いかぶっていたんだろうと気付かされる一言。
そうだ、お母様は楽しそうに弾いていた。それは、観客を楽しませるためにわざと楽しんでいた訳じゃない。楽しんで歌うお母様を観て、観客もわたしも楽しんでたんだ。
*
「上手に歌わんでええねんで! アドリブや! 失敗なんてあらへんで!」
ヤマサンの一言がさらに背中を押した。琥珀は目を閉じ、母のコンサートに立っている自分を想像する。
ヤマサンの演奏が再び始まる。
身体がリズムを刻む。
母が笑って演奏している。
思わず口元がほころぶ。
すると、自然に出てきたハミングがいつの間にか数小節のピアノ演奏を彩っていた。
演奏が終わる。
ひと呼吸の静寂のあと、再び拍手の波が丘を包んだ。
「今でもこんな素敵なエンターテイメントがあるなんて……あなたの歌、胸に沁みたわ」と、誰かの声が聞こえた。
感じたことのない喜び、胸の奥が熱くなる感覚。琥珀は自然に「……ありがとう」と言葉を発していた。
それは、朝露に揺れる花のようにそっと、そしてはっきりと。ガジュ丸なしで単語を発することが出来た瞬間だった。
少しだけ、彼女は顔を赤らめる。
『わたしの歌を……必要としてくれてる人がいたんだよ……ガガガ……』
ガジュ丸の通訳が、想いをミナトに運ぶ。ミナトは静かに頷いた。
花畑、咲きかけた蕾たちが人工の朝風に揺れ、笑っていた。
ヤマサンとミナトが琥珀を部屋へ送っていると、約束よりも早くその姿は現れた。
オレンジ色のライダースーツに身を包み、波打つアッシュブロンドの髪をひと振りでかき上げる女性。
立ち姿には、火花のような自信と気迫を纏っている。
「は、早かってんな!」
ヤマサンが慌てた声を漏らす。
「なに? そんなに驚くこと?」
シエリが鋭い視線を向け、わずかに眉をひそめる。
彼女は「久しぶりね、ミナト」と、軽い口調で彼に近づき、その距離感はやたらと近い。
ミナトは少し身を引き、苦笑いを浮かべた。以前から、シエリの押しの強さは苦手だった。
やがて、シエリの視線は琥珀へと移る。
彼女は、初対面の少女を一瞥し、言葉少なな様子にあからさまな興味のなさを見せつけた。
一同は琥珀のレンタルルーム前で立ち止まる。がらんとした部屋の中に唯一の彩り――テーブルの花瓶に咲いたデイジーが見えた。
シエリの瞳が細まる。
「コハちゃん、人集めてコンサートせえへんか?」
ヤマサンが場を和ませるように言った。
その提案にミナトも頷いた。琥珀が少しでも自信を持てるように、と。
「コハちゃん、ギター弾けるゆーてたやんな? 一緒に弾こうや」
ヤマサンの軽い誘いに琥珀は小さく首を振った。
でも、あの時のお母様の表情に少しでも近づきたい。
大切なギター、……母のギター。
何度も繰り返し再生した映像の中で、母がピアニストとセッションしていたあのギターは、まだシェルターの中にあるのだろうか。
「ガジュ、わたしギターがあれば、セッションしてみたい! 家まで取りに行きたいの。ミナト! って通訳して!」
「そんなに大きな声で言ったら、聞こえちゃってるよ!」
琥珀が「あっ」と、目を閉じてしゃがみこむ。
と、その時だった。
〝ウゥゥゥーーーーーーーーーーッ〟
突然のサイレンが低く長く鳴り響く。何度も聴いた〝目〟の接近を知らせる音。だが、前回からの間隔があまりにも短すぎる。
「ナイス、タイミングやで! ……でも、おかしいな。こんな早う来るなんてな」
ヤマサンはミナトに目で合図を送った。
「ミナト、久しぶりに出かけるで。コハちゃん、ギター取りに行くんは大人に任しとき」
子供扱いされ、琥珀は少し膨れた顔で見上げた。同時に、シエリが即座に止めに入る。
「ヤマ、あんたはハンターじゃないのよ。外は危険すぎるわ」
だが、ヤマサンの目は引き下がらない。彼には本当の目的が別にあった。
「男にはな、行かなあかん時があんねや。……せや、ガジュ丸の件、頼んだで!」
ヤマサンの袖口を引くシエリ。「何かあったらどうするの」と何度か止めたが、とうとう彼の意思を変えることは出来なかった。
「わいは一時間かそこらで帰ってくる。絶対帰ってくる。帰ってこんといかん理由があんねや。おっと、これ以上は言えんからな。
シエリ、ビックリすること待ってるで! せや、ガジュ丸の件、頼んださかいな!」
バイクのエンジン音が遠ざかる。残されたのは、シエリと琥珀、二人きりだった。
部屋に入り、沈黙が落ちる。
空気が冷え込む。
シエリの視線が一瞬テーブルの花を捕らえ、それから琥珀に向いた。
そして、彼女が数秒睨めつけたのち発した言葉は、冷たい針となり琥珀の胸に深く刺し込まれた。
「コハちゃんさん、あんた、なんでここに住んでんの? 私の部屋なの。出てってくれる?」




