愛 1
★ ★ ★
暗い。
涙に濡れた頬のように湿った暗闇が、大谷竹美を包んでいた。闇は底知れず、何処までもどこまでも続いている。音も、匂いも、感触もない。唯ひたすらの闇だった。
竹美は薄く目を開けて、どことも知れぬ仄暗い空間で蹲り、項垂れている。いつからそうしているのか、どうしてそこに居るのかも竹美には解らなかった。
ふと、懐かしい香りがした。
「綺麗だね」
傍らの声に顔を上げる。
パッと、光が満ちた。
竹美の隣に、たまらなく恋しい人の横顔があった。でも誰だろう? 思い出せない。逆光で彼の顔を伺い知れない。それなのに、何故だか微笑みが溢れてくる。
薄紅色の花弁がはらりと落ちる。花弁は次々と落ちてきて、二人を静かに包む。竹美が顔を上げると、眼の前には見事なソメイヨシノの木があった。それだけじゃない。辺りには満開の桜並木があって、柔らかな、淡い木漏れ日を湖岸の遊歩道に落としている。
「うん。綺麗だね」
竹美は答え、傍らの少年の肩に寄りかかる。少年と指先が触れ合って、躊躇いがちに手を繋ぐ。二人は互いに顔を赤らめて、静かに見つめ合う。
「また、来年もこようね」
少年が言う。
「うん。その時はお弁当作るね。少しだけ、料理の練習とかしておくから。幸人は、どんなお菓子が好き?」
そこまで言って、竹美はハッと息を呑む。
そういえば、前にもこんなことがあった──。三年程も前、中学生の時のことだ。幸人と度々訪れた湖の傍には桜並木の遊歩道があって、春には大勢の花見客が押し寄せたものだ。竹美と幸人も学校の帰りに桜を見に行った。二人きりで、自転車に二人乗りで。そう、これはあの日の光景そのものなのだ。
これは私の記憶なんだ。
竹美は全てに気が付いて、同時にたまらなく胸が熱くなる。込み上げる涙を押し込めて、でも浸っていたくて。竹美は幸人の言葉を待つ。
「チョコレートが好きかな。まあ、甘いのは何でも好きだけど」
「そう。じゃあ、チョコレートのお菓子、作ってあげる」
「ありがとう。約束だよ?」
「うん。約束……するね」
答えた竹美の頭に、ふわりと花弁が落ちる。幸人は指先で花弁をつまみ、竹美の髪を撫でる。竹美は「あっ」と呟いて、更に顔を赤らめた。
ぐにゃりと景色が歪み、再びの暗闇が訪れる。
竹美はたちまち幸人の姿を見失い、慌てふためいて辺りを見回した。次の瞬間、ザアっと雨が降り出して、竹美は急き立てられるように走り出す。走る内に、徐々に足元がアスファルトへと変わり、見慣れた街の光景が広がってゆく。
「竹美、早く」
半袖の制服に身を包んだ幸人が揶揄うように言い、眼の前を駆けてゆく。竹美は「待ってよ」と声をかけながら幸人の背を追い、きゃあ、きゃあと悲鳴を上げて公園の屋根付きベンチへと走り込む。
二人はベンチに腰掛けて、肩を並べてハンカチで額の汗と雨の雫を拭った。
「はい」
と、眼の前に清涼飲料のペットボトルが差し出される。竹美はなんとなく受け取るが、飲みかけてピタリと動きを止める。
「どうしたの?」
幸人が不思議そうな顔をする。
「だって、か、関節キ……」
竹美が赤くなって俯くと、幸人の顔に悪戯めいた微笑が浮かぶ。ペットボトルは蓋が空いており、飲みかけだったのだ。
「それを狙ってたのにな。もしかして、嫌なの?」
「それは……嫌じゃない、けど」
「へえ。本当に? じゃあ、飲んでみせてよ」
「だ、だって、恥ずかしい、から」
「だから良いんじゃないか」
涼し気に微笑む幸人の瞳に、更に悪戯めいた光が宿る。彼の前髪を伝う雫が落ち、竹美の膝で砕け散る。竹美は恥ずかしさに耐えかねたように「もう!」と、幸人の肩を叩く。が、その拍子に肘がひじ掛けに当たり、痺れるような痛みに包まれて苦悶の声を上げた。
「竹美はドジっ子だね」
心配そうに視線をやる幸人に対し、竹美は俯いたまま、暫し顔を曇らせていた。
「竹美、どうしたの?」
「これ。この肘掛、邪魔だよね」
「え? あ、うん。邪魔だね」
答える幸人と竹美との間を、ベンチの肘掛が邪魔していた。その肘掛のせいで、二人は肩を寄せ合えずにいる。
「最近増えたよね。この手のベンチ」
幸人の指先がひじ掛けをなぞる。その肘掛けは、ベンチの両端だけではなく、竹美と幸人を仕切るように備え付けてあるのだ。
「これね、意地悪ベンチって呼ばれてるのよ」
「意地悪ベンチ? どうして」
「ベンチって、長くて寝そべったり出来るイメージがあるでしょ? でもこれだとベンチで横になることも出来ない。それってなんでだと思う?」
竹美に問われ、幸人は暫し沈黙するが……やがて、涼し気な瞳に薄く怒りの色が浮かぶ。
「つまり、ホームレス対策、か」
「うん。だから意地悪ベンチ。本当に意地悪だよね。この国ではもう、住処のない人やお金がない旅人は、公園でたった一晩横になることさえも許されないの。そういうのって……」
「うん。ムカつくね」
幸人の低い声を聴き、竹美はハッとした表情を浮かべる。
「あ。変なこと考えないでよね?」
「変なこと?」
「だって幸人は頭が良いくせに、私が見張ってないとすぐに悪だくみっていうか、暴走しちゃうでしょ?」
「そう、かな?」
「そうよ」
なんて、竹美は幸人を横目で見やり、ペットボトルのソーダ水を飲み込んだ。もう、雨は上がっていた。
夕方、竹美は幸人から自宅まで送り届けられ、私服に着替えて学校の宿題を済ませた。その後は台所へと向かい、ハムと卵を調理して食パンに載せ、サンドウィッチを二つ拵えた。サンドウィッチを鞄に詰め込んだら玄関へと行き、玄関の靴箱の下から工具入れを引っ張り出す。手頃なプラスドライバーを数本とペンチ、モンキーレンチを鞄に詰め込むと、竹美はこっそりと家を抜け出して駆け出した。
もう日が暮れて、夕焼けの残滓が空一面を赤紫に染めていた。鞄の工具がカチャカチャと鳴る。雨後の蒸し暑い中を五分程も走って湖へと辿り着くと、駐輪場の隅には見覚えのある自転車が停まっていた。竹美にとって予想通りの光景があったのだ。そうして竹美は江津湖公園の奥へと進む。向かったのは、先程、幸人と過ごしたベンチだった。
「……やっぱり」
竹美はポツリと呟いた。目当てのベンチからは肘掛が取り払われており、もう、意地悪ベンチではない普通のベンチへと変貌していたのだ。そこから竹美が辺りを見渡すと、湖沿いの公園の隅に、夕闇に紛れるようにしてベンチに張り付いて悪戦苦闘する影がひとつ──。幸人だった。幸人は小さなプラスドライバーを手に、意地悪ベンチの肘掛を取り外そうとしている様子である。
「これ、使いなさい」
竹美が大ぶりなプラスドライバーを手に背後から声をかけると、幸人はビクリと肩を震わせて、恐る恐る振り返る。何か誤魔化すように苦笑いを浮かべる幸人の顔が、やけに竹美の深い部分に刺さった。竹美は幸人の傍らにしゃがみ込み、口を尖らせながら作業を手伝い始める。
「竹美。どうして?」
「どうしてって、幸人が考えてることぐらい、わからないと思った? 私だけ置き去りにして、一人で全部済ませるなんてズルいよ」
「でも、知らせたら竹美を巻き込んじゃうじゃないか」
「もう。今更何を言ってるの? そもそも私達って……」
「私達って?」
「その……共犯者、なんでしょ?」
と、竹美は顔を赤らめて視線を逸らす。その手に幸人の指先が触れ、竹美と恋人繋ぎに手を繋ぐ。竹美は高鳴る鼓動を感じながら、幸人と頷き合った。
こうして、二人は悪戦苦闘しながら公園中のベンチの肘掛を取り外し、大きなスポーツバッグへと詰め込んでゆく。
「問題は、証拠をどうするか、だね」
幸人は作業を終え、サンタクロースみたいにバッグを背負い、無邪気に微笑みを投げる。公園のベンチは両サイドを除き、全ての肘掛が取り払われていた。晴れ晴れとした幸人の姿を見て、竹美はつくづく、この人とは離れられないと感じていた。
「そうね。見つかったらすぐに元に戻されちゃう。それじゃ意味がないから……下江津湖の方まで行こうよ。証拠を隠滅するなら、いい場所があるの」
なんて、竹美も悪い笑みを返す。
こうして、二人は幸人の自転車に乗った。前籠にスポーツバッグを乗せ、竹美もスポーツバッグを背負って幸人にしがみ付く。宵闇の中、自転車は長い林道を進み始める。時折設置された街灯の灯が、自転車の二人を淡く浮かび上がらせる。
湿った夏の風の中、竹美は幸人の背中に頬を擦り寄せるようにして、眼を閉じて風を感じていた。
「ねえ、幸人」
「なに?」
「ううん、なんでもない」
「なんだよ、言いたいことがあるなら言いなよ」
「じゃあ言うけど、幸人はどうしてベンチを? 私、なにも言ってなかったのに」
「……だって、竹美があんなに悲しそうな顔をしてたから。でも、それって竹美が優しいからで。そういう、君の心が好きなんだ」
幸人が言った瞬間、幾分か涼し気な風が吹き抜けた。幸人にしがみ付く竹美の腕が、ぎゅっと力を増す。幸人の背のぬくもりを感じながら、竹美の胸中を溢れんばかりの言葉が埋め尽くしていた。それまで幸人と過ごした記憶の一つ一つが、奔流のように、竹美の胸に浮かんでは消える。
春には二人で桜を見に行った。繋いだ手のぬくもりが心地よかった。
バレンタインデーにはチョコレートを渡した。お菓子屋さんで買った出来合いの物だったけど、幸人は顔を赤くしながらも、とても喜んでくれた。
テスト前には学校に居残って一緒に勉強した。梅雨時の雷が怖くてカーテンを閉めてとせがむと、幸人は悪戯っぽく微笑みながらも、カーテンを閉めて手を繋いでいてくれた。
そして夏には、こうして二人でちょっとだけ悪いことをしている。法を犯す興奮も相まって高鳴る鼓動に、寄り添う背中の感触だって忘れられない。ここらは田舎だから、秋には広々とした田園を稲穂が錦秋の香りで満たす。ジャン=フランソワ・ミレーの〝晩鐘〟のように黄金色に染まった夕暮れの農道を、二人ではしゃぎながら駆けてゆくのだろう。冬には幸人は竹美を気遣って、長いもこもこのマフラーを巻いてくれるのだろう。否、竹美は知っている。幸人は確かにそうしてくれた。全てがかけがえがなくて、もう忘れることなんて出来ない。もうとっくに手遅れなのだ。取り返しが付かない程に、竹美は──。
涙が溢れて止まらない。竹美は幸人の背におでこをくっつけたまま、溢れ出す掛け替えのない気持ちを嚙みしめていた。
ねえ、幸人。あなたはどれぐらい私のことを好いてくれているのかな。私はね、もう声にならないの。本当はね、桜が散るあの綺麗な光景もあまり眼に入ってこなかった。あなたのせいだよ。もし、いつか幸人が何処か遠くへ行ったなら、私も絶対についていくの。きっと幸人は困った顔をして、ちょっぴり私を叱って、それでも受け入れてくれるんだよね。幸人がいつかピンチに陥ったら、今日みたいに必ず駆けつけて力になるんだ。きっと、幸人もそうしてくれるって感じるから。貴方が行くところなら何処へだってついて行きたいし、片時だって離れたくない。この先も、ずっとずっと一緒に居たい。私もあなたの心が好き。そういうの、重いって思われちゃうのかな。もしそうなら嫌だな。でも、どうしようもないの。だって、この気持ち……こういうの、なんていうか分からないけど、きっと──。
ふと、竹美は肩の辺りに柔らかな熱を感じた。目をやると、何故だか肩口が淡く光を放っている。いつか見た魔法の輝きに似ている。
「……さん、たけ……ん。おねが……目……て……」
彼方から、竹美を呼ぶ声がする。
ぐっと、竹美は幸人の服の裾を掴む。待って。あと少しでいい。もう少しだけ……。そう願う竹美の指が、幸人の背を透過するように離れ、幸人の背中が離れてゆく。そう、どんどん遠ざかって小さくなってゆく。竹美は震えながら手を伸ばし。軽く息を吸い込んだ。
「大好き。大好きだよ、幸人」
竹美の眼から、大粒の雫が落ちる。
やがて竹美の眼前で、幸人の姿が闇に包まれて消える。音も、匂いも、光も消えてゆく。それと交錯するように、彼方からの声が大きくなり、クリアーになってゆく。声だけではない。絶え間ない銃声と破壊音、誰かの悲鳴に呻き声、地鳴りのような爆発音までもが、竹美の全身を包み始める。
「頑張って。私は絶対に見捨てたりしません。だから諦めないで。お願い、目を開けて下さい!」
耳を劈くような轟音の中、それでもハッキリと聞き取れたのは、聞き覚えのある、新しい友人の声だった。
★ ★ ★
ハッと竹美は目を開ける。
眼前には、真っ白な、美しい少女の姿があった。焦げ臭い匂いが鼻を衝く。遠くからは絶え間なく銃声がしており、煙が立ち込めていてかなり視界が悪い。空が赤い。森が燃えているのか。
竹美は理解して、やっと口を開く。
「りんごちゃん……だ」
「嗚呼、やっと気が付いたのですね。良かった」
りんごちゃんは目に涙をいっぱいに貯めて、横たわる竹美の肩口に手を当てていた。肩からはかなり出血している筈なのだが、妙だ。怪我の程度の割にあまり痛みを感じないし、やけに暖かい。脇腹の銃創の痛みも消えている。そんな竹美の疑問は一目で解消した。りんごちゃんの掌が白く発光しており、光が当たっている箇所から徐々に痛みが引いてゆくのである。
「傷が消えてる。りんごちゃん、実は凄い超能力者なんだね」
「はい。この能力については誰にもナイショにしてくださいね」
「あれからどうなったの? 私、どれぐらい気を失って?」
と、身を起しかけるが、りんごちゃんが制止する。
「一◯分ぐらいです。地球製UFOの攻撃で森が火の海になったので、詳しい状況は分りません。地上から砲撃や銃撃音がしていますから、きっと山本さんや演習場の自衛隊員が反撃しているのでしょう。でも……二回、またDEWの光を見ました。その度に大きな火柱が上がりましたから、その、状況は芳しくないようです」
「そう。じゃあ、私も山本さんに合流しなきゃ、だね」
「あ、駄目ですよ、まだ身体が……」
止めるりんごちゃんの手を柔く振り解き、竹美はぐっと身を起こす。幾分かの痛みが残ってはいるが、動き回ることは出来そうだった。
辺りは文字通り火の海だった。煙が充満しており状況が分らない。巨大なミミズが這ったかのように地面が深く抉れている。地球製UFOの荷電粒子砲の攻撃で、少し地形が変わったらしい。
竹美の視線の片隅で、何かが蠢く。ユーロチームの金髪の少女が横たわり、微かに呻き声を上げていた。竹美と戦った赤毛の少女は見当たらない。DEWの攻撃で蒸発したのかもしれない。
竹美はよろけながらも立ち上がり、金髪の少女をおんぶして、銃のスリングベルトをロープ代わりに身体に括りつけた。なんとか走れそうだ。口を利いたこともない娘だけど、見捨てる訳にはいかない。
『そういう、君の心が好きなんだ』
微かに少年の声がした気がして、竹美は振り返る。が、幸人の姿はない。燃え盛る森の赤々とした炎が視界を満たすのみだった。それでも、遠ざかる幸人の背の感触がありありと手に残っている。ぐっと、胸が熱くなる。絶望や恐れを溶かすかのように、暖かな感情が込み上げて来る。
そう。これはきっと愛なんだ──。
内心に呟いて、竹美は戦火へと踏み出した。




