斎く賓客
──正直、太陽はもう出ないで欲しいのだけれど……。思わずリヒトさんに確認して冷房を付ける。そんな思いを無視して──現実というものは非情だ──その光を売り捌く市場として、雲の蓋と戦いながら、愛が有るかは知らないけれど燦燦と太陽は人を焼く。雲が身罷ってしまったから日没前に太陽が死ぬことは望むべくもない。モルヒネを強くするべきかもしれない。部屋の角の光が当たらない鬱屈とした場所に下を向いて腰掛ける。壁がガサゴソと耳打ち。おかしい。この奥には何もないはずなんだけれど。目でリヒトさんに合図する。
『どうかした?ネモちゃん。』
「何かこの壁の奥から音がする。」
驚いたように、彼は壁に耳を当てる。視界に彼の頭髪に混じる緋色が揺れる。そう言えば、彼が頭髪を染めたであろう理由が見つからない。寧ろ怪しいくらい真面目そうな顔をしている彼は染髪など縁が無さそうだ。緋色の髪は目に見えて傷んでいるように見える。何かあったに違いない。そんなことを考えて、私は──おそらく私たちだけれど──彼の過去について何も知らないということを今更になって感じた。視野に白飛びするくらいドライ・ビビットのエフェクト。怪訝色の視線を感じて、私は思考を放る。ブルーシートの奥なんて見たくないし。いつ死体が出てくるか分からない。
「ここに穴ある……ね。」
頭の少し上側によく見ると鍵穴のような穴があることに気づいて不自然に話を振る。意識的に壁に目を逸らしたように見えたかもしれない。
『ああ、ほんとうだ。昨日までこんな穴なかったんだけれどね。』
交互に覗き込む。見えるのは虚ばかり。鍵は見える世界を増やしてくれるけれど、鍵穴は無情な虚を提供する。或いは迷宮かもしれない。何処にいるかもわからず右往左往してしまうような。
『何も見えないな。そこで提案がある。名探偵みたいな事を云うつもりでは勿論無いんだけれど、鍵穴と云えばもう1つ有るじゃないか。』
確かに。何も理論的な裏付けを持たないけれど。箸が転げて笑うみたいに何故か勢いのままに、私たちは玄関に行ってドアをそうっと開けた。
***
にゃあ、にゃあご。
──大当たりだった。周りの色を自分を綾なす化粧にしている純白色の猫。特徴的な赤い眼。他の家の飼い犬だったのなら、おそらくリコピンとか名付けられていただろう。扉を開けた張本人の彼は衝撃を受けたような顔をしていた。美術館の絵に圧倒されたようなそんな風。何もかも分からない人間だけれど、リヒトさんが次に言うことは何となく分かった。
『この子を飼おう。』
ほら当たりだ。仔細違わず。
***
かくして、この美しき猫は斎く。
***
『この子はセラフィムと名付けよう。』
それは複数形だよ。私は思わず呟く。ヘブライ語で最上位の天使を表す言葉。ミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエル。
『良いじゃないか。睡季さんの真似だよ。セレネー・ヘカテー・アルテミス。素敵なことだよ。きっと。重すぎるかもしれないけれど、きっとこの曲がった背骨はきっと柔軟性があるさ。人間と違って。』
自己を非難するような目でそう言いながら彼は久しぶりに紙のタバコに火をつけた。シーシャよりも重たい煙だ。とても綿飴には見えない。




