「名付け」の魔力と、未知の粘液
1.貯水池のスライムと「名付け」の儀式
木工工房を出て、設置された桶の確認も兼ねて貯水池へと向かおうとすると、足元から「ジュニア(芯命樹の苗)」がひょっこりと顔を出した。
「あらジュニア、一緒に行く?」
ジュニアは嬉しそうに枝をワサワサと揺らし、先頭に立って案内を始めた。
到着した貯水池では、日光を反射してキラキラと輝くスライムたちが、ピョンピョンと跳ねたり、水の中を音もなく泳いだりして過ごしていた。そしてその奥には、一際大きなスライムが鎮座していた。
「あら、何もないわね」
リアナは、小屋に設置された桶を確認したが、中は空っぽだった。すると、ジュニアが大きなスライムに向かって枝を揺らす。それに応えるように、大きなスライムも身体をポヨンポヨンと波打たせた。
「何を話しているんですかね……」
エリーが不思議そうに呟くと、リアナは当然のように答えた。
「そうね、ビックとジュニアが相談しているみたいね」
「え? ビックって……またそんな安直な、いえ、独特な名前をつけたんですか!?」
「カチンと来るわね。独特な名前って言い方変えただけよね!」
「あ……すみません。お嬢様のネーミングセンスが直球すぎて、つい……」
「ジュニア、あなたの『ゆずレモン』を私にくれないかしら。今すぐエリーの口に放り込んで、その失礼な口を封じたいわ」
エリーは、すぐに手で口を塞ぎ、ジュニアは「今は実がなっていないんだ」と困惑したように枝を振る。リアナは「冗談よ」と悪魔のような微笑みを浮かべたが、エリーは背筋に冷たいものを感じていた。
その時、名前を呼ばれた大きなスライム――ビックが、歓喜したように激しく震え出した。
「あら、どうしたのビック?」
ビックはポヨンポヨンと飛び跳ねると、自ら小屋へと向かい、空だった桶の中に自分の粘液をたっぷりと満たし始めたのだ。
「急にどうしたのかしら。やる気満々ね」
(いやいや、どう考えてもスライムに名前をつけた影響ですよね……)
エリーの心のツッコミをよそに、リアナは名案を思いついたように手を叩いた。
「ねえ、ここに水車を置いたら、ビックたちがクルクルと回してくれないかしら?」
「いやいや、さすがにそれは……。水車は水の流れで回るものですし、スライムにそんな労働をさせるなんて……」
エリーが呆れてラウルやロバートに同意を求めると、二人も苦笑いしながら頷いた。
「あら、労働なんて考えてないわよ。スライムたちの遊び道具として設置したら回してくれないかと思っただけよ」
「スライムの遊び道具ですか……」
エリーは呆れて首を横に振ったが、当のビックは「任せろ!」と言わんばかりに、巨体を揺らして水車の設置予定場所を示した。
「でも、さすがにビックが乗ったら、木製の水車は壊れちゃうわね。もっと頑丈な素材が必要かしら……」
リアナの思考は、すでに「スライム動力」という未知の領域へと足を踏み入れていた。
こうして、オルフェウス領の技術開発は、農機具から「魔物活用」へと、さらに斜め上の方向へ加速していくのだった。
2.ビックの「献上品」
スライムのビックが桶に満たした、透明でとろりとした粘液。それは陽の光を浴びて宝石のようにキラキラと輝いているが、その正体は全く不明だった。
「この粘液、どうしようかしら……。流石にこの量を手で運ぶことはできないわね。今は置いておくしかないわ」
リアナは申し訳なさそうに、大きな身体を揺らすビックを見つめた。
「ごめんなさいね、ビック。せっかく出してくれたのに」
ビックは気にする様子もなく、むしろ褒められたのが嬉しいのか、プルンプルンと全身をリズミカルに震わせて喜びを表現している。
「あとで、誰かに取りに来させるわね」
小屋の中には最初から台車が運び込まれており、その上に桶が固定されている。馬や魔物さえ連れてくれば、そのまま連結して屋敷の工房まで一気に運搬できる仕組みだ。リアナの抜かりない「物流設計」だった。
リアナは桶に並々と注がれた粘液をじっと見つめ、思案にふけった。
「さて、このスライムの粘液……一体何なのかしら」
チラリと隣のエリーに視線を送るが、エリーは「私に聞かないでください」と言わんばかりに、お手上げのジェスチャーで首を振った。
ラウルとロバートも同様の動きをした。
(強酸性や強アルカリ性だったら、うかつに触るとただじゃ済まないわね……。でも、今の私にはリトマス試験紙も pHメーターもない。確認する方法がないわ)
前世の記憶を掘り起こしてみる。スライムの粘液といえば、ファンタジーの定番では「強力な酸」で装備を溶かすか、あるいは「凄まじい粘着剤」か、はたまた「最高級の潤滑油」か……。
(孫がスライムオイルを集めたりしてたわね)
もしこれが強力な酸なら、金属加工や洗浄に使える。
もしこれが中性の潤滑油なら、さっきハンスと話していた水車の軸受けに最適かもしれない。
あるいは、美容成分たっぷりの保湿剤……という線も、この輝きを見る限り否定はできなかった。
(……紫キャベツがあれば、アントシアニンで酸性度を計れるんだけど。この世界に紫キャベツなんてあったかしら? あるいは、ある種の植物の花びらでも代用できるはず……)
リアナの脳内で、中学生レベルの理科実験の記憶が呼び起こされる。
「エリー、この近くに『色が鮮やかで、絞ると濃い色が出る花』とか『紫色の野菜』って生えていないかしら?」
「……リアナ様、先ほどからずっと妙なことばかり仰っていますが、今度は植物採集ですか?」
「実験よ、実験! この『ビックの贈り物』を安全に使うためのね」
リアナはワクワクとした表情で、ビックの粘液を指差した。
ただの令嬢なら気味悪がって避けるであろう謎の液体。しかし、リアナの目にはそれが、領地を発展させるための「未知の新素材」にしか見えていなかった。
「まあいいわ。まずはこの粘液を屋敷に運ぶ手配をしましょう。……それから!」
リアナはパン、と手を叩いた。
「いよいよ、クッキーを持ってティータイムよ」
「いえ、その前に昼食とジョアンナ夫人の講義がありますよ」
エリーの言葉にげんなりするリアナ
「私を現実に戻さないでくれるかしら」
エリーに愚痴を言いながらビックに別れを告げる。
「ビック、また来るわね!ジュニア行くわよ」
ビックに見送られながら、リアナは意気揚々と貯水池を後にした。
足元ではジュニアが満足げに枝を揺らし、エリーは「次は一体何が起きるのか」という諦めに似た期待を抱きながら、主人の背中を追いかけた。
オルフェウス家の厨房には、そろそろ香ばしい焼き上がりの香りが充満しているはずだ。
未知の粘液の解析、そして「ヤバい」クッキーのお披露目。
リアナの忙しい午後は、まだ始まったばかりだった。




