第Ⅶ話 前編【友達とミルクシフォン】其の三
西の館までは、この路地を抜けた方が時間がかかる。それでも、今日はこちらの方が速そうだ。
正午を迎えると北通りは、見るからに人の数が増えていた。折り返しから見てもほとんど人が屋台に並んでいて動いていなかった。
人を避ける為にこちらに来たが、正解だったようだ。
西区まではなだらかな下り坂でかなり歩きやすい。入り組んだ造りの街の北西の区を、右や左に進みながら抜けていく。初見なら間違いなく迷子になる所だが、遊んで覚えた道だ、迷うことはない。
――それにしても入り組んだ造りだよな。まるで迷路みたいだ……。
この街は元々、防衛目的の港街として出来たと、以前習った事がある。隣国から攻められた事があったらしいが、かなり昔の話だ。その当時を知る人なんてもういない。
街は修繕を繰り返し徐々に広がり、今の形に収まった。だが、迷路みたいな造りはそのまま残っている。
いつもは街の子供達の遊び場になる路地だが、祭りに出ているのか元気な声は聞こえてこない。たまに人とすれ違うぐらいで、静かなものだ。
――あそこを出たら西区の真ん中ぐらいだ。
しばらく歩くと路地の終わりに差し掛かった。
段々と騒がしさが増してくるが、北通りほどじゃない。裏路地から西通りに抜けると、薬市の中央あたりに出て来た。
薬市は今朝も通ったが、そこまで見ていない。正直、わからないものばかりで、見ても仕方がないと思っている。
流し目で市場を軽く見ながら館へと向かった。
少し進んだ所で足を止めた。
流れて来た風に乗って、微かにバニラの香りが鼻を掠めたからだ。首を左右に振って見回すが、バニラは見当たらない。気のせいかと思ったが、また鼻先を掠めどこかからバニラの香りが流れて来ている。
風は北の方から吹いている。左にあった屋台を覗くが、やはりバニラの姿はない。
気のせいかと思い、店を離れようとすると奥にいた怪しげな外套を被った人が話しかけて来た。
「――何かお探しかい?」
外套が大きくて顔まではよく見えない。男の人にしては高く女では低い声で性別もわからなかった。
「いえ、大丈夫で……」途中で言うのを止めた。
――やはり気になる。
バニラが手に入ればもっと甘い香りが出せるかもしれない。そう思い立ち去るのを辞めたが、店主の怪しさが妙に浮いて見えて……少し怖い。目が合った気がして中々、話しかける事が出来なかった。
「……大丈夫かい?」
優しく声をかけてくれた店主に、意を決して香りの謎を尋ねた。
「あの……。あの、バニラの香りがしたんですが……ありませんか?」
「バニラはないけど近い物ならあるよ」
バニラに近い物と言われても、どんな物か想像もつかない。
「――これだよ」
外套からヌッと出て来た指先が刺していたのは、黒い種のようなものだった。
「これですか?種みたいですけど……」
小石ぐらいの大きさで、見た目は細長く黒い種のようにも見える。バニラじゃないのかと残念に思った。
「香りは似てるんだけどね、実はそんなに似てないんだ。嗅いでみるかい?」
小さな小鉢に一粒入れ、腕を伸ばしてきたので受け取った。似てるけど似てない、どういうことだろうか。鼻を近づけ、スーッと静かに吸った。
嗅いでみると似ている。バニラよりも杏仁豆腐みたいな甘い香りに近い気がする。それにシナモンみたいなスパイスの香りも少しだけ感じる。
息を吐き出しもう一度嗅いでみたが、やはりバニラのような香りもするが。どこか違う。そんな不思議な香りがした。
「これはトンカ豆っていってね、バニラみたいだけど違うだろ」
また、ヌッと伸びた腕に小鉢を渡し、返事をした。
「はい、不思議な香りでした」
「――バニラの栽培が盛んなⅣの国よりもさらに下。最南の国“Ⅵ”で採れた物なんだよ。その国じゃ【幸運のお守り】なんて呼ばれて売られていたよ」
Ⅵの国はこの国から三つも先の、すごく暑い国らしい。行ったことはないが、どこかで聞いた事があった。
「幸運のお守りか……」
無意識にそれを掴みかけ、伸ばした手を止めた。
――これがあればもしかしたら何かが、変わるのかな。
少し悩んだが、トンカ豆をいくつか買うことにして店主に伝えると、十粒小さな袋に入れて渡してくれた。
「細かく削るか、砕いで煮出すと香りが出てくる」
「――Que la fortuna te acompañe.」
低く、どこか遠い響きの言葉を口にした。
なんて言ったんだ。聞いた事ない言葉だった。
「向こうの昔の言葉でトンカ豆を買うと言われるんだ。いい事がありますようにって意味らしい」
――いい事がありますようにか……。
自然と気持ちが、少しだけ晴れた気がした。
「ありがとうございます」
屋台の主人にお礼を告げ、その場を後にした。
材料屋で買った器具や卵の袋にトンカ豆と全粉乳を入れ、館に向けて西区を進んでいく。
パームスから聞いた話では、牛乳を乾燥させた粉を全粉乳と呼ぶらしい。なんでも、空気に触れると固まってくるらしく、瓶に詰めて渡してくれた。
透明な瓶を持ち上げると、乳白色の粉が入っている。
これを使うと、どうなるのかは予想もつかない。でもミルク感が増すなら、ミーナが好む味を出せるかもしれない。
――今度こそ……。
次こそミーナに届けるんだ。自分に誓った思いを、もう一度思い出し、足を速めた。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
西区は北区と違い、人の姿はまばらで歩きやすい。骨董市も宿願祭が終盤に入り、並んでいる物も少ない。初日に見た変な形の壺や落書きみたいな絵は無くなっていた。
変わった物を買う人がいるもんだと思いながら進むが、ふと思い出した。
父さんもたまに変わった物を買って母さんに怒られてたな。今年は帰ってこれそうにないらしい。少しでも祭りを一緒に楽しみたかった……。少しだけ残念な気持ちが湧いた。
市場を過ぎると、ほとんど人は歩いていない。ギルドも扉を開けてはいるが、暇そうな受付が一人見えただけだ。
しばらく歩くと、少し先に館が見えて来た。
――帰ったらミルクシフォンを作らないとな、
今度こそ成功させて届けよう。気持ちを新たに前を向くと、鉄門のところには衛兵が一人。いつもと変わらない。
だが、キースの姿が見えた事で違和感を感じた。
――珍しいな。
キースには材料を買いに街へ行くと言って家を出た。まだ、正午を少し過ぎただけで遅くもない。
だが、キースから少し離れた所に二人の姿が見え、足が止まった。
どうして……。
――あれは……ガッチョとアルテミアだ。
お読みいただきありがとうございます。
今回出てきたトンカ豆ですが、実際にも存在する素材で、
バニラに似た甘い香りを持っています。
そして作中で使った言葉、
「Que la fortuna te acompañe.~ケラ・フォルトゥナ・テ・アコンパニェ~
(幸運があなたと共にありますように)
知らない言葉なのに、なぜか少しだけ、前を向ける気がする。
エルにとっての“足りない何か”が、少しでも見つかるきっかけになればいいなと思いながら書きました。
次回の更新は5月9日(土)19時30分です。
次回も引き続きお付き合いください。




