4話
「ふんふ~ん♪……ふふん、ふんふん♪」
研究室の片隅で、俺は鼻歌を刻んでいた。
声に出すほどではないが、自然とリズムが漏れ出す――そんな、ささやかなご機嫌が漂っている。
机にはプリントした文献の束、モニターには実験プログラムの計算ログが流れる。
いつも通りの昼下がりのはずなのに、空気がどこか軽く感じられる。
「先輩~、コーヒー淹れたんですけど、良かったらいかがですか?」
同じ研究室の後輩・姫島まりが、熱気をまとったポッドを手に持ち、俺にコーヒーを勧めてくる。
「お、ありがとう。気が利くな」
俺が空のマグカップを差し出すと、姫島は嬉しそうに頬をゆるませる。
そのままカップを受け取り、ポッドをゆっくりと傾けて丁寧にコーヒーを注ぐ。
「あ、俺のも~」
「じゃぁ、自分も」
西田と森下がすかさず便乗しようと手を伸ばしたが、姫島がちらりと鋭く一瞥すると、二人は「ひっ」と肩をすくめて引き下がった。
コーヒーを注ぎ終えた姫島は、湯気の立つカップをそっと俺の机に置く。
「……ふふ……先輩、最近ご機嫌ですね」
「ん~?そうか?まぁ、実験が順調だからな」
読み進めている文献に視線を固定したまま、淡々と答える。
「……ふぅ」
姫島は、これ以上話しかけても無駄だと悟ったように、ほんのわずか息をついた。
視線をそっと落とし、小さく肩をすくめる。
彼女は踵を返していつもの席へ戻っていく。
歩幅はいつもよりわずかに小さく、背中には気づかれない程度のしょんぼり感がにじんでいた。
◆ ◆ ◆
「ぷぷぷっ、先輩は今星屑みさきに夢中だから何やっても無駄だよ」
西田が、しょんぼり席へ戻った姫島に軽く声をかけてからかおうとする。
「……星屑みさきって誰よ?」
小さく威圧をこめた姫島の声に、西田は一瞬ひるみつつも何とか言葉を繋げる。
「ひっ、いや、最近復帰したVTuberのことだよ」
「VTuber……?あー、アニメっぽい美少女の姿で配信とかしてる人だっけ?」
「そうそう。先輩の推しだった星屑みさきってVTuberが復帰したんで、ここのところずっと機嫌がいいみたいだよ」
その言葉を聞いた瞬間、姫島の目がまん丸に見開かれた。
驚きというより、“理解が追いつかない”という色が強い。
「……え、えぇ……?そんな理由で……?」
「そんな理由って……推しの復帰はデカいよ。あんな出来事はそうそうないからね」
「へ、へぇ~~……」
姫島の視線が揺れ、机の上を右往左往する。
「あれ?姫島さんはVTuberとか嫌いな人?」
横で話を聞いていた森下が加わってくる。
「いや、別に嫌いってわけじゃないけど……どこがそんなにいいのかよくわかんない、かな……?」
「ふーん、あんまり良い印象は持ってないんだね」
「別に否定するってほどじゃないけどさぁ……本人が自分でやればいいのに、
なんでキャラクターを挟むのか分からないんだよね」
姫島はまだ腑に落ちないという顔をする。
「ほら、テーマパークのマスコットっているじゃん?」
西田が腕を組み、少し身を乗り出す。
「中の人はおっさんでも、外から見えるのはマスコットそのものだろ?
ああやって姿を借りて演じることで、そこに訪れたみんなに夢を見せてるわけだ」
「ふーん……まぁ、それは分かるけど……」
「VTuberも似たようなもんよ。中の仕組みはどうあれ、“見える姿”で楽しませるって点では一緒ってこと」
「えぇ~……」
「現実そのままじゃなくて、キャラクター越しだからこそ入っていけるんだよね。だからみんなハマるんだよ」
滔滔と解説を行う西田の声には妙な熱がこもっていた。
それは説明するというより、推し活の沼へ誘う布教活動をしているようだった。
その熱量に押されたのか、姫島はわずかに肩をすくめ、小さく息をのむ。
「う、う~ん……そういうものなのね……」
姫島がとりあえず受け入れる姿勢を見せたことで、西田の勢いもようやく落ち着いていった。
「まぁまぁ、楽しみ方は個人差あるからね。でも先輩は多分ガチ恋勢だからなぁ」
「……ガチ……何?」
「ガチ恋勢。そのVTuberの人を本気で好きになっちゃう人のこと」
「……はあああぁぁぁ?」
姫島は声を張り上げ、戸惑いの叫びを響かせる。
「あ~、自分もそんな気がしてた」
森下も西田の言葉に同意し、軽くうなずいた。
「まぁ、あの人はそういうの隠す方だから認めたりはしないだろうけど」
「でも、見てれば大体わかるよね」
談笑する二人をよそに、姫島は青ざめた顔で頭を抱える。
「……ちょ、ちょっと待って。VTuberってさ、見えてる姿と中身は違うのよ!?それなのに“ガチ恋”って、どういう理屈なのよ……?」
「なんて言ったらいいのかなぁ。中身が誰でも“キャラクターとして接してる時間”が本物なんだよ」
「そうそう。外側がキャラでも、中の人の感情とか努力はちゃんと伝わるしね」
西田に同意して森下もうなずく。
「そうやって、声とか仕草とか、その人の作る世界に触れてるうちにさ……気づいたら好きになるんだよ」
「だね、そこに惹かれちゃう人は多いよね」
「……む、無理……理解が追いつかない……」
姫島は完全に動揺し、視線をあちこちへ泳がせる。
「いやいや、そんな難しく考えなくていいんだって。ガチ恋って、“キャラ越しに見える人柄”に沼るって感じ。
見た目っていうより、中身の雰囲気が刺さるんだよね」
「へぇ、詳しいね。もしかして西田もガチ恋寄り?」
「ガチ恋対象が多すぎて、両手の指どころか両足含めても足りないけどな。あははは」
「それガチ恋っていうよりただの浮気性じゃない?あははは」
「……いやいやいやいや……」
姫島は二人を見る。
理解不能の域を越え、頭を抱えて思わず身を縮める。
怖気すら感じたのか、肩が小刻みに震え、指先までこわばっていた。
「め、目を……目を覚ましなさいってば!!」
姫島は二人を正気に戻そうと必死に声を張り上げる。
「あれは見た目は美少女でも、な、中身おじさんなのよ!?」
「えっ?」
「はっ?」
「そ、それにガチ恋って……!せせ、先輩が……お、おじ、おじさんに……!?おじさんに……!!」
必死に言葉をつなげながら、姫島の表情は恐怖と混乱でぐしゃぐしゃになる。
「……あ、それはそれで……あり……なの……?」
何かを思いついて、ぽっと頬を赤く染める。
「どこに着地してんだよ!!」
勢いよく乱入し、姫島の誤解を一刀両断する。
「姫島、お前!VTuberとバ美肉をごっちゃにしてるだろ!!」
「えっ……?バ美肉……?」
姫島は完全に理解が追いついていない顔で固まる。
「あぁ!バ美肉!」
「ちがっw、それは違っw」
二人は姫島が勘違いしていることに気づき、腹を抱えて笑い転げる。
説明を受け、ようやく誤解だったと理解した姫島は、顔を真っ赤にしてその場に固まるしかなかった。




