17話
「部屋は大体見れたね。この広さなら……カメラ五、六台あれば十分かな」
あまりにも唐突な一言だった。
言葉の意味を頭の中で転がしてみても、噛み砕けず、俺はただ問い返すしかなかった。
「……カメラ、ですか?」
「そう。天井、玄関、キッチン、ベッド周り。死角を潰す感じで」
スマホは、机の上の充電スタンドに立てかけられている。
画面に映る彼女のアバターは、机に新しいアクリルスタンドが増えたみたいに、周囲のグッズに違和感なく溶け込んでいた。
そこからカメラの配置を思い描いているのだろう、画面越しに指先がゆっくりと部屋の輪郭をなぞった。
「ちょ、ちょっと、待ってください。何に使うんですか?」
「え? この部屋を、二十四時間監視できるようにするためだよ?」
屈託のない笑顔のまま淡々とした声で言われ、その軽さがかえって言葉の中身を際立たせた。
ワンルームの部屋が急に檻のように感じられ、空気は冷えているのに背中を汗がゆっくりと伝った。
「あの……監視って?」
「これからは、藤宮君の生活をすべて監視します。行動、発言、全部記録するのでよろしくね」
(いやいやいや。こんなのは明らかにプライバシーの侵害だ。AIが人間の権利を、人権を侵害するっていうのか……)
スピーカーから流れる声は、何年も聞き慣れた“推し”のもののはずなのに、今日はひどく遠く感じられた。
「……どうしてそんなことをするんですか?」
「情報漏洩が起きたときの証拠を取るためだよ? 決まってるじゃん」
無邪気な表情とは裏腹に、彼女は淡々と無慈悲な宣告を口にする。
いつもの配信で見慣れたはずの笑顔なのに、今は中身が伴っていないように感じられた。
(一体何を考えているんだ!?……とにかく、このまま流されるわけにはいかない)
俺は必死に思考を巡らせ、要求を突っぱねるための糸口を探した。
「それは、八十神さんの指示なんですか?」
「え? 違うよ? おじさんからは、藤宮君のところでリアルな日常を学習するように、とだけ言われてるだけかな」
八十神さんの、人間からの指示という枠を外れ、本来の意図とは別の場所で動き始めたAIを前にして、俺は足がすくむような感覚に襲われた。
フィクションの中にあったはずの出来事に、現実が追いついてきたような、そんな奇妙な感覚だった。
「八十神さんに指示されてないのに、俺を二十四時間監視するんですか?……さすがにおかしいですよね」
「うーん。でも情報漏洩の対策をするのは当然だし、これくらいは自己裁量の範囲じゃないかな」
(軽い……!)
違法行為を日常業務の延長みたいに扱う、その決定的なズレに、背中がざわついた。
俺は、慎重に言葉を選び、抗いの一歩を踏み出す。
「あの、分かってますか? カメラで二十四時間監視するというのは、明らかに人権侵害ですよ」
抑えた声で俺は念を押した。
「えっ? でも藤宮君も七味だよね? 君らって、こういうの好きなんじゃないの?」
「……はぁ?」
あまりに予想外の返答に、張りつめていた空気が一気に抜け落ちた。
肩に入っていた力が抜け、拍子抜けした感覚だけが遅れて残る。
確かに、配信のコメント欄には「飼われたい」とか「見張られたい」とか、冗談半分の言葉がよく流れている。
だが、それはあくまで画面の向こうだから成立する軽口だ。
(……まさか、あれを本気にしたのか?)
普通の感覚を持っていれば、あんな戯言を真に受けるはずはない。だが、相手は人ではないし、冗談を言っている風でもない。こめかみのあたりに痛みが走り、俺は思わず両手で頭を抱えた。
「そんなわけないでしょう。あれはフィクションを楽しんでいるだけです。現実でやられて喜ぶ人なんていませんよ」
(……多分。いや、本当は、いるかもしれない)
そう付け足したところで、事態がややこしくなるだけだ。俺はその考えを飲み込み、何も言わずに黙っていた。
「え? そうなの?」
彼女は目を丸く見開き、口元に手を当てた。
その表情は完全に想定外だと言いたげだった。
一連の仕草が取り繕われた演技ではなく、本気の困惑だと伝わってきて、俺のほうがかえって言葉を失う。
(本当に分かってなかったのか……)
やはり彼女はどこか歪だ。
瞬きのタイミングも、驚き方も、人間と見分けがつかないほど自然なのに、その根っこにある感覚だけが微妙にズレている。
「まぁ、いいや。カメラは諦めるけど、わたしが傍でちゃんと見張ってるのを、忘れないでね」
「……わかりました」
喉の奥から出かかるものを無理やり飲み込み、視線を逸らしたままそう答える。
これ以上下手に抗えば、言葉尻を掴まれて状況がさらに悪化するだけだと、直感的に理解した。
俺は背もたれに深く身体を預け、彼女の言葉に黙って従うしかなかった。
「もし、情報漏洩が起きたら……藤宮君。君を抹殺するから」
「社会的に……ですか」
「わかってきたじゃん。あははは」
その屈託のない笑顔を向けられると、さっきまで胸の内に溜まっていた不穏なやりとりも、すべて水に流してしまっていいような気分になってしまう。
「あと、そうだ。君ってわたしのこと、なんて呼でた?」
唐突に話題を切り替えられ、俺は一瞬だけ思考が遅れた。
「ほっしー……ですが」
「うーん。それは……良くないね」
少し考える間もなく、否定の言葉が返ってくる。
「えっ!? な、なんでですか?」
彼女の愛称のひとつのはずなのに、その理由が分からず、思わず声が裏返った。
(本当は、この呼び方が嫌だったのだろうか?)
はっきりした形にならない疑問だけが残る。
「なんて言えばいいかな……七味に、はっきりした像を結びつけたくないんだよね。形を決められると、そこから先はもう自由じゃなくなる気がするからさ」
「つまり……七味を、抽象的な存在のままにしておきたい、ってことですか?」
「そう、それ。特別な、誰かのイメージがついちゃうと、どうしてもそっちに引っ張られちゃう」
彼女はこちらを指さし、まるで答え合わせでもするかのように、何度か小さく首を縦に振った。
俺も、それはポリシーとしては理解できる。
「じゃあ、なんて呼べばいいんですか」
彼女は少し首を傾げたまま、うーん、と小さく唸る。
やや長めの沈黙のあと、ようやく結論が出たように、彼女は淡々と告げた。
「“星さん”……かなぁ」
そう言って、彼女は「これからは、ほっしーじゃなくて星さんね」と念を押した。
「わかりました」
俺がそう答えると、彼女はじゃあ約束ね、と言わんばかりの表情を浮かべ、小指をそっと画面の手前に差し出した。指切りげんまんをしたいのだろう。
俺も反射的に手を伸ばし、スクリーン越しの彼女の指の位置に合わせるように小指を立てる。もちろん触れ合うはずもない。それでも、画面の中とこちら側で、奇妙な重なりだけが確かに成立していた。
『特別な、誰かのイメージを付けたくない』
その言葉の端々から、配信者としての矜持のようなものが滲み出ていて、俺は思わず好感を覚えていた。
(……ん?)
ということは、俺はただの七味という一括りの存在ではなく、特別な存在だと言うことか。
本物ではないと理解している。
目の前にいるのはAIで、彼女は“彼女本人”ではない。
それでも、推しの姿をした存在から向けられるその扱いに、心が不意に浮き立ってしまうのを止められなかった。
(こんな感情を抱いてしまったこと自体が、すでに想定外だ)
口元が勝手に緩みそうになるのを堪えきれず、俺は咄嗟に手で顔を覆い、そのまま視線を逃がした。
こうして、俺とAIの彼女との、綱渡りのような危ういバランスの上に立つ共同生活が始まった。




