16話
玄関ドアの前で、俺は深く息を吐いた。
金属製のドアは昼の熱を溜め込んだままで、指先を近づけるだけでじんわりとした温もりが伝わってくる。
「どうしてこうなった」
今朝、ここを出る前までは、ひとり暮らしの気楽な部屋だったはずだ。
それが突如、厄介な同居人――しかも人ですらない存在――を迎えることになるとは。
「……はぁ」
胃の奥に不快な重さを残したまま、いつまでもここに立っているわけにはいかないと自分に言い聞かせた。
逃げ場はない。
観念して鍵へ手を伸ばした、その瞬間だった。
「藤宮君、まだなの? さっさと開けなさいよ」
胸ポケットから、無遠慮な声が飛んできた。
「……はいはい」
思わず小声で返事をする。
俺の胸ポケットには、スマホが入っている。
薄い布越しに、微かな振動と熱が伝わってくる。
内蔵カメラを通して、彼女は外の様子を覗いている……らしい。
「もう、ほんと視界最悪なんだけど。地面しか見えないんだけど?」
「無理言わないでくださいよ。
ポケットに入ってるんですから、多少傾くのはどうしようもないです」
「だったら、もっと見やすいように手に持って、前に向けてよー」
スピーカーから流れる声は、遠慮というものを知らない。
「周りが見えないー。つまんないー」
(もう少し音量を絞ってくれないかな。
廊下に響く)
注意が周囲へ引きずられ、落ち着かないまま、俺はそそくさと鍵を回す。
「あの、近所迷惑なんで、静かにお願いします……」
「えぇー、もう仕方ないなあ」
ドアを開けると、室内に溜まっていた冷えた空気と、廊下の湿気がぶつかり合う。
俺が靴を脱いで部屋に上がると、背後でドアがバタンと音を立てて閉まった。
そのまま短い廊下を抜け、居室に足を踏み入れる。
荷物を床に置いたところで、案の定というべきか、声が飛んできた。
「もう部屋に入ったよね? 中、見せて」
促されるまま、渋々スマホを胸ポケットから取り出す。
手に持ち替え、言われた通り腕を伸ばして室内へ向けると、内蔵カメラがようやく部屋の様子を映し出した。
画面の向こうで、満足そうに鼻を鳴らす気配がした。
「ふぅん……ここが藤宮君の部屋か。
なんか普通の部屋だね、もっとオタク部屋なのかと思ってた」
「ほっしーさんの汚部屋よりは、はるかにマシですかね」
画面の向こうで、否定しきれずに言葉を探している気配がした。
認めたくない事実を突きつけられた直後の、わずかな間。
沈黙の裏に、噛み殺したような悔しさが滲んでいるのが分かる。
「そ、そんなことないよ、わたしの部屋の方がきれいだけど?」
「でも、俺は飲みかけのペットボトルを放置したりしないですよ?」
ここぞとばかりに、言葉を重ねてしまう。
「君さぁ……そういうとこ、好きじゃないよ」
スマホ画面に映った彼女は、わざとらしいほど半目でこちらを睨み、あからさまに拗ねたような表情をする。
(七味たちにいじられたとき、よくこんな表情をしていたな)
配信で何度も見た仕草が、目の前の画面にそのまま重なる。
その姿が記憶の中の彼女を呼び起こし、心の距離が縮まったかのような錯覚に引き込まれる。
(これで本当にAIなんだよな)
偽物であるはずなのに、本物と寸分違わない。
その事実を前に、違和感だけが静かに薄れていく。
「あんまり物がないんだね。ミニマリストってやつ?」
「そこまでじゃないです。ただ……あんまり物欲はない方ですね」
推しのポスターもアクスタも棚には見当たらず、机の上にわずかに置かれているだけだった。
ぽつんと据えられた本棚にも、大学の専門書が並ぶ以外に、目を引くものは何もない。
「うーん。普通でつまんないな」
「普通でいいんですよ」
「あ、そういえば……アレがないじゃない。どこに置いてあるの?」
「アレ?」
思い当たるものがなく、無意識に首を傾げた。
「一人暮らしの男の人なら、だいたい持ってるやつ」
(男なら大体持ってる……?)
「縞模様で円筒形のやつ」
(ストローか?
それって男関係あるか?)
「プラスチックで出来てて、包み込む感じのやつ」
(プラスチックで包み込む……?
何かのケースかな?)
「あの、あれだよ、天狗みたいなやつ」
「いや、分からないです。何に使うやつですか?」
俺の言葉を聞いた瞬間、画面の向こうで彼女が目を見開いた。
次いで、慌てたように視線を逸らし、誤魔化すような笑いを漏らす。
「ちょ、ちょ、ちょ……それを面と向かって聞く? 君さぁ、さすがにデリカシーなさすぎだよ」
「え? え? 何のことですか?」
突然向けられた非難に、状況が飲み込めず言葉に詰まる。
「あー……もう。だから、その……そう! TE●GAだよ!」
「……は?」
あまりに予想外の答えに、しばらく言葉が出てこなかった。
喉の奥で何かが引っかかったまま、ただスマホの画面を見つめる。
「男の人はみんな持ってるんでしょ? どこに隠してあるのさ?」
「いや、そんなの持ってないですよ」
「え? 無いの? 男の人はみんな持ってるんでしょ?」
間髪入れずに重ねられる言葉に、こちらの方が戸惑う。
「いや、ないです。
女性だって、みんなエグい形状のマッサージ器を持ってるわけじゃないですよね」
「あ、あ、あー……」
俺の言葉が刺さったのか、画面の中で彼女は一瞬だけ固まり、それから何かを悟ったように視線を泳がせた。
言葉が途切れ、気まずい沈黙が続いた。
エアコンの送風音だけが、妙に強調されて耳に残る。
「あははは……よし、この話はやめよう!」
乾いた笑いで強引に締めくくり、彼女は話題を押し流した。
(本当に、AIなんだよな?)
照れたような仕草も、誤魔化す笑顔も、間の取り方まで自然すぎる。
その一つ一つが、配信で見てきた“星屑みさき”と重なっていく。
これはただのAIだと、分かっているはずなのに、本物の“推し”だと錯覚してしまいそうだ。




