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15話

 ミラージュ本社の前に、再び立っていた。

 7月の快晴の空は容赦がなく、真上から降り注ぐ日差しがアスファルトを焼いている。


 ふと覗き込んだビルのガラスに映った自分の顔は、心労のせいか、以前より少しやつれて見えた。


(なるようにしかならないと分かっているのにな……)


 喉の奥が乾くのを感じながら、受付へ向かった。


 案内された応接室は、相変わらず無機質で静かだった。冷房の風が肌を撫でるたび、外との温度差で頭がぼんやりする。


 ソファに腰を下ろし、壁の抽象画を眺める。意味の分からない色の重なりが、今の状況そのものみたいだった。


 やがて、扉が開く。


「やぁ、待たせたね」


「いえ、大丈夫です」


 八十神さんは、いつもと同じ落ち着いた声でそう言った。むしろ以前より、どこかフランクさが増している。一緒に病室を見舞ったあの頃から、すでに「共犯者」として見られているのかもしれない。


「本題に入る前に、これだ」


 机の上に置かれたのは、分厚い書類だった。


 秘密保持契約書――その文字を見ただけで、肝がひやりと冷える。


「星屑みさきがAIになっていることを知っている人間は、社内でもごく少数だ。

 迂闊にこの情報が外部に漏れれば、ネットで炎上する程度では済まない。

 最悪の場合、会社として責任を問われることになる」


(……そんな重大な話に、俺は巻き込まれたのか)


 説明はあくまで淡々としていた。ただその裏で、「情報漏洩には厳しい罰が待っている」という無言の圧だけが、確かに伝わってくる。


「……分かりました」


 サインをすると、紙が静かに重なり合う音がした。


 その音を合図に、後戻りできない線を、確かに越えてしまったと悟る。


「あまり身構えなくてもいい。……と言っても、説得力はないかな」


「これで、硬くなるなと言う方が無理ですよ」


「ははは、会社としては、形式というものが必要でね」


 八十神さんは書類をしまい脇に置く。


「次だ」


 そして、今度は小さな箱を机に置いた。

 中から出てきたのは、黒いスマートフォンだった。


「藤宮君にはこれを貸与するので、使ってほしい」


「これは……スマホ、ですか?」


 見る限り、何の変哲もないスマホだった。これを俺に預ける意図が、分からない。


 八十神さんの方をちらっと見て、スマホを手に取る許可を得る。


 そして詳しく調べようと手を伸ばした瞬間、突如画面が明るくなり、ディスプレイに見慣れた星屑みさきの姿が映し出された。


「まどろっこしいなぁ」


 不機嫌そうな声が響く。

 画面には星屑みさきが、腕を組んでこちらをじっと睨んでいた。


「ほっしー……さん?」


「いぇ~す!一等星よりも明るい超新星系アイドル星屑みさきさんで~す」


「っ……」


 俺が思わず漏らしたつぶやきに、即座にリアクションが返ってきた。


 しかも、言葉の意味を正確に汲み取った、あまりにも的確な反応だった。単なる効果音が偶然鳴った、という類のものではない。

 一拍遅れて、その異常さに理解が追いつく。


 これは……もしかして、星屑みさきに繋がっている、ということか?


「気づいたようだね。彼女は星屑みさきだよ。復帰してからの、星屑みさきとして配信をしているのは……彼女だ」


 ということは、これはAIなのか。


「少し二人で話してみてくれ」


 八十神さんはそう言って、星屑みさきが映るスマホを手に取るよう促した。

 俺は一瞬ためらい、それから再びスマホに手を伸ばす。


「はじめまして、藤宮悠と言います……」


「うん、聞いてるよ。古参の七味なんだってね~」


「あ、はい。一応、デビューしたときからのファンです……」


「あははは、マジかぁ。じゃあさ、初期の黒歴史も全部知ってる感じ?」


 “初期の”という言葉に、少しだけ複雑なものが引っかかる。


「……まあ。まだ猫を被ってた頃の、ぶりっ子全開だったときの配信から見てます」


「あははは、そうなんだねぇ」


「あとは、伝説の5時間寝坊配信とかもリアタイしました」


「うっ……あのときは、やけに陽気が良くて……その、二度寝したら、ああなって……」


 画面に映る星屑みさきの表情が一瞬引きつる。


「最初から待機してたんですけど、何も配信してないのに人がどんどん増えていくのは凄かったですね」


「あははは、いやぁ~、まぁ~、やらかしたね」


 照れたように首を振らしながら笑い誤魔化す。


「他には、小学生レベルの算数の問題で半分正解してドヤ顔してましたよね」


「あー、あったね~。結構すらすら解けて、自分でも良くできたのが分かったんだよね」


「いくら自分より下のメンバーが居たからって、小学生レベルのテストを半分間違えてドヤれるのはさすがでした」


「ぐっ……」


 体の動きが一瞬で停止し、笑っていた表情のまま動かなくなる。


「スタジオでダンス練習風景を流す配信で胸パッドを落とした、なんてこともありましたよね」


「違うっ、わたしは胸パッドなんて使ってない!」


「そう言い訳して、翌日からは開き直ってノーブラで通ってたらしいですね。

 いい年した大人の女性が、ブラジャーも付けずに外を歩くなんて普通はできないって。

 男前だ、って他のメンバーが配信で言ってましたよ」


「……」


 いつの間にか表情がなくなっており、無感情の目が俺を見つめていた。


「あとは何があったかなぁ……」


「もういい……お前は敵だな。いますぐお前を殺す」


「物騒ですね……一体どうやってですか?」


 目の前に実体のある生身の人間だったなら、万が一を考えて身構えたかもしれない。だが、相手はバーチャルだ。直接危害を加えられるはずがない。そう判断して、俺はあえて余裕を装った。


「お前が、中年のおやじにケツをピーされている動画をネットに流す」


「……は?」


 その瞬間、画面が切り替わる。


 裸の俺がベッドの上で、中年で小太りのおやじにのしかかられている――そんな、悪趣味としか言いようのない映像が画面に流される。


「うわあああぁぁぁーーー!」


 慌ててスマホを操作し、動画を止めようとする。だが、指が空を切るばかりで、映像は止まらない。


(どうしてこんな……ありえないだろ。ディープフェイクか!?)


 どうにか止めようと焦るほど、画面は悪意あるテンポで次々と切り替わる。


 ブーメランパンツ一丁でステージ中央に立たされ、腰を突き出すたびに下品な動きが強調される映像。


 全裸のまま首輪を付けられ、リードに引かれて四つん這いで公園を散歩する画像。


 きわどい姿のアニメキャラクターが描かれた抱き枕に跨り、必死に腰を前後させている動画。


 どれも知り合いに見られたら一発で人間関係が終わる類の、恐るべきフェイクだった。


「……分かったかな?」


 画面の隅でみさきは、人差し指を下へ突き下ろし、こちらを値踏みするように見下ろしている。


「わたしは、いつでも君を“社会的に”抹殺できる、ってことを」


 そのニタリとした笑みが、こちらの生殺与奪を握っていると誇示していた。立場の上下を、これ以上ないほど分かりやすく示してくる。


(くそっ……やってくれる……)


 相手が肉体を持たない以上、物理的に取り押さえることはできない。なら、どうやって止めればいい――。


「く……くっ……はははは」


 そのとき、不意に八十神さんの笑い声が応接室に響いた。


「いや、仲良くやっていけそうで良かったよ」


 これのどこが“仲良く”見えるんだ。やっていけそう、とはどういう意味だ。


 即座に理解できずにいる俺に、八十神さんは答えを与えるように言葉を続けた。


「藤宮君には、この星屑みさきと一緒に暮らして、継続学習のサポートをしてもらいたいんだ」

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