12話
「あの人はいったい誰なんですか!」
病院の廊下で迷惑をかけないように、声量だけは抑えたつもりだったが、語気はどうしても荒くなる。
本当は聞きたくなんてなかった。それでも、聞かずにはいられなかった。
「ここでは迷惑になるな。外に出ようか」
八十神さんはそう言うと、俺の言葉を封じるように、足早に歩き、元来た道を戻っていく。
病院のエントランスは診察待ちの人々の声が入り混じり、どこか落ち着かないざわめきに包まれていた。
自動ドアを抜けると、外気の湿り気を含んだ初夏の風が頬を撫でる。
玄関横まで歩いたところで、八十神さんは無言のまま自販機へ向かい、缶コーヒーを二本取り出すと、そのうちの一本をそっとこちらへ差し出してきた。
「……いただきます」
プルタブを開けると、立ちのぼるコーヒーの香りが鼻腔へゆっくり染み込み、ざわついていた心に平静を取り戻させた。
「さて、どこから話そうか」
八十神さんは缶の縁を指で軽く叩きながら、言葉を選ぶように視線を宙へ漂わせる。
「彼女は……誰なんですか?」
俺は焦げ付くような疑問を押し殺せず、単刀直入に問いただした。
「あの子はわたしの姪だよ。そして……彼女が星屑みさきだ」
──心臓が、ひと拍遅れて脈打った。
薄々そうじゃないかと思っていた。だが、実際に言われると、心の奥で何かが軋むような衝撃があった。
「事故で半身不随というのは本当だったんですか……?」
「いや、違う」
八十神さんは、はっきり否定するように首を振った。
「あの子はALS──筋萎縮性側索硬化症の末期だ」
「筋萎縮……?」
聞きなれない言葉に思考が追いつかず、力の抜けた声が漏れた
「神経が壊れていって、筋肉が徐々に動かなくなる病気だよ。
腕も、足も、声すら出せなくなる……
そして最後は、呼吸さえも出来なくなり、死に至る」
淡々と語る言葉の端には、やりきれなさ滲んでいた。
八十神さんは声を震わせ、こらえきれない気持ちを隠すように空を見上げた。
「あの子はもう話すことはおろか、我々と意思疎通することもできない」
「意識不明……ということですか?」
「いや、少し違う」
八十神さんは、ゆっくりと首を横に振る。
「ALSの末期には“完全閉じ込め”という状態に至ることがある。
手や、足や、指先ひとつ動かすことが出来ない。
声を発することもできず、まぶたを開くことすら出来ない」
八十神さんの声は徐々に荒くなった。
しかし、言葉を区切った瞬間、糸が切れたように力が抜ける。
「そうなると我々は、あの子が何を考え、何を思い、
何を伝えようとしているか、それを知ることができなくなる。
あの子の中には、ちゃんと“意識の光”がある……なのに、
それを外に出す術がひとつもないんだ」
抑えきれない悲しさがはっきりと浮かび上がっていた。
意識は残ったままなのに、周囲にそれを伝える手段がひとつもない……
誰かが話しかけても、何も返すことができない。
誰かに助けを求めたくても、何も伝えることができない。
喜びも、悲しみも、痛みも、苦しみも、自分の思いは何一つ外に出ることはない。
──その状況を思い描いた瞬間、ぞっとして背筋に冷たいものが走った。
「知ってるかい。超新星が燃え尽きたあとに残る天体を。
光さえ閉じ込める、あの暗闇の星のことを……
“超新星アイドル”とはよく言ったものだよ。
その結末まで真似る必要なんてどこにもないのにな」
俺は言葉を挟むことすらできず、ただ八十神さんの言葉を受け止めるしかなかった。
想像していたどんな“辛い現実”より、数段深いところに落とされたようで、冷えた缶を握ったまま、しばらく動けなかった。




