13話
知らされた現実の重さに気圧されながらも、ゆっくりと呼吸を整える。
散らかった思考を繋ぎなおすと、置き去りになっていた疑問が再び姿を現した。
今、死の淵にいる彼女が星屑みさきだというなら……。
じゃあ──
再び俺たちの前に現れた彼女は、いったい誰なんだ。
「二年前のことだ」
俺の疑問を察したのか、八十神さんは再び語り出した。
◆ ◆ ◆
──まだ涼しさが残る晩春の夜。
「なんかさ、最近うまく踊れないし、なんか歩くのもしんどいんだよねぇ」
あの子が最初に漏らしたのは、スタジオへ向かう途中だった。
「最近忙しかったから、疲れが溜まってるんじゃないか?」
私は最初、ただ疲れが溜まっているだけだと思った。
「仕事もひと段落したし、少し休業するのも手じゃないか?」
「えぇー?嫌だよ。私が休んだら七味が悲しむでしょ」
少し傾斜のきつい坂道で急に立ち止まり、息を整えながら、あの子はそう言って笑った。
汗を拭う手つきひとつ取っても、無理をしているのが分かった。
その頃はまだ、本人も私も、ただの不調だと思おうとしていたんだ。
けれど、収録のあとにペットボトルの蓋が開けられず、スタジオの階段では手すりに両手でしがみつく。
ダンスの確認をすれば、ほんの数分で足が止まる。
昨日まで当たり前にできていたことが、少しずつ零れていった。
いくつか病院を回ったけれど、体調不良の原因は分からなかった。
検査のたびに「様子を見ましょう」と言われた。
「特に悪いとこはないんだから、そのうち治るでしょ」
あの子は軽く言っていた。
しかし、言葉とは裏腹に、急速に症状は悪化して行った。
そのころにはもう、誰かの助けなしには階段を上がることもできなくなっていた。
平坦な道を歩いているだけでもすぐに立ち止まり、少し長く歩けば肩が大きく上下する。
そして、何度目かの診察で……ALSと診断された。
医師が病名と経過を説明しているあいだ、あの子は一言も発さず、ただ小さく頷いていた。
私は視線を落としたまま説明を聞き続け、最後まで隣にいるあの子を見ることができなかった。
それからのあの子は、目に見えて塞ぎ込んでいった。
「どうして、私が……」
自分の部屋に閉じこもり、連絡を入れても短い返事すら返ってこない日が増えた。
そして、長く辛い入院生活が始まった。
病室のカーテンは、昼間でも閉じられたままだった。
呼びかけても返事はなく、視線だけが宙を彷徨い、やがて何もない空白へと落ち着く。
私には、あの子が生きる理由も抗う力も見失い、ただ時と共に朽ちていくのを待っているようにしか見えなかった。
しかし、ある日を境に、あの子の様子が変わった。
病室のテレビで、AIを使って故人の声や会話を再現し、遺された家族が対話する研究のニュースが流れていた。
それまでろくに画面も見なかったあの子が、その日だけは食い入るように見つめていた。
ニュースが終わるなり、久しぶりに私の方を向いて、AI関連の研究について立て続けに質問を投げかけてきた。
「ねえ、AIって……人の代わりになれると思う?」
「どう……なんだろうね」
「声とか喋り方って、AIにちゃんと残せるもの?」
「……技術的には出来るんじゃないかな」
「AIが私を再現したら、それは“私”って言えるのかな」
あの子は、あのニュースに完全に触発されていた。
私はすぐに止めた。
遺された人のための再現ですら危ういのに、生きている自分自身をAIで置き換えて活動させるなんて、倫理的に問題があると。
けれど、あの子は引かなかった。
その話をするときだけは、弱くなっていた声が妙にはっきりしていた。
「どんなに元の人間を再現しても、それは元の人と同じじゃないよ」
「本物と見分けがつかないなら、それは本物と同じだよ』
「AIには身体がないのだから、本物にはなれないよ」
「身体はあるよ!」
「どういう意味だい?」
「VTuberなら、バーチャルの身体があるよ」
「……」
見舞いに行くたび、ノートやタブレットには関連記事の切り抜きと、会社で進んでいたAI研究について調べたメモが増えていった。
私は何度も反対した。
どんなにAIが彼女を真似たとしても、AIと彼女は別の存在だ。
自分の意識をAIに移すことなんて不可能だし、ファンを欺くことになるかもしれない。
そう言っても、あの子は首を横に振るばかりだった。
ついには、『AIで星屑みさきの活動を再開する』と言い出した。
今の自分では果たせなくなった夢を、AIとなった自分が実現する。
そんなふうに、本気で信じているようだった。
それが幻想だとしても、あの子にとっては生きるための拠り所になり始めていた。
病状が進み、気持ちまで沈んでいく彼女を見ているうちに、せめて心の支えになればと考えるようになった。
結局、私が折れたんだ。
◆ ◆ ◆
そして、あの子はやり切った──
八十神社長は缶を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「星屑みさきが復活した、あの日。あの子も一緒にステージの配信を見ていたんだよ」
八十神さんは、言葉を選ぶように事実だけを話してくれた。
「『私が……ステージに……立っている』 それがあの子の最後の言葉だった」
八十神はそこで言葉を切り、わずかに息を詰めた。
レンズの奥で、光が揺れる。
彼は何事もなかったかのように眼鏡を外し、ゆっくりと拭いた。
視線は伏せられたまま、こちらを向くことはない。
「もはや声は出ない、指も動かない。
唯一動かせる視線を使い、文字盤を前に置いて、一文字ずつ、時間をかけて拾っていく。
あの子は、その最後に残された手段で……本当に、精一杯伝えてくれた」
八十神さんは、言い終えたあともしばらくその場に立ち尽くしていた。
そして短く息を吐くと、空になった缶をゴミ箱へ放り込んだ。
軽い音がして、缶が底に当たる。
「それ以降は、視線も定まらなくなってね。もう話すことは出来なくなったよ」
俺は言葉を失ったまま、八十神と向き合った。
病室で本物の星屑みさきを見たとき、復帰して戻ってきた存在は偽物なのだと思い込もうとしていた。
だが、彼女自身は、そのAIが自分を模した姿を、「自分だ」と言っていたという。
俺が今見ている星屑みさきは何なのか。
本物なのか、偽物なのか。
そんな問いさえ次第に意味を失い、答えの影すら掴めないまま、思考だけが宙に取り残された。
「今までの話を聞いて、君は……騙されたと思うかい?」
八十神さんの問いかけに、俺は何も答えることが出来なかった。




