第4話 歪んだ構文(ノア視点)
学院を離れて三日目。旅支度にも、野営にも、いい加減慣れた……と錯覚し始めた頃だった。
進路を南へととり、オルディア自治区に向かっていた。そこには“風の詩式”を使うという噂の女がいる。
「風」は、詩式において極めて不安定な要素だ。正確には、空間拡散系演算。構文が拡散の端を見失えば、演算全体が崩壊する。使いこなせる者など、ほぼいない。
それを自在に操る女。感情と詩式を、共鳴させながら——。
そんな存在が、もし本当にいるのだとしたら……。
* * *
オルディア郊外、かつての流通拠点跡に、異常な律動の波を感じた。 空間が震える。 いや——震えていない。音は聞こえるのに、空気が震えていない。視覚と聴覚の同期がズレている。
「……制御構文が崩壊してる」
重力が歪むような錯覚。視界の端に、黒くひび割れたような演算の断片。 暴走詩式。
本来、詩式は感情と詩の“同期”によって安定する。 制御構文は、溢れそうな感情を型に収める“器”だ。 器が壊れれば、感情はあふれ、詩式は形を失い、暴走する。
それが今、目の前で起きていた。
建物の壁が反り、地面が細かく振動している。 誰かが、感情を制御しきれず、構文を崩壊させたのだ。
——このままだと、構文内の空間演算が自己干渉を起こす。 ——もっと歪む。崩れる。術者ごと、構造が反転する。
「間に合うか……?」
詩式を展開しようとした、その時だった。
風が吹いた。
ひと筋の風。それだけだった。 だが次の瞬間、暴走していた構文が——止まった。
風の通り道だけ、空間がまるで清掃されたように整い、崩れかけていた構文が静かに収束していく。
詩文が“浄化”されるような感覚。
「……なんだ、今のは」
風の出所を探しても、誰もいなかった。ただ、遠くでフードをかぶった人物が、背を向けて歩いていく姿だけがあった。
風は、音を運ばない。空気も揺らさない。けれど——確かに“何か”を残していった。
僕の中で、記憶と仮説がざわめく。
かつて、父が残したノートにはこう記されていた。
> 「詩式は、演算ではなく、共鳴である」
ずっと意味がわからなかった。だが、今は少しだけ分かる気がした。
あれは、共鳴だ。
感情と、世界と、何かと——共鳴していた。
* * *
その日、オルディアの町では、小さな騒ぎと、ひとつの風の噂だけが残った。
僕はまだ、その“風”に名前があることを知らなかった。
——ユナ。
それが、すべての始まりだった。