第1話「忠義の剣」(カイン視点)
……起動シーケンス再構築。 感情干渉アルス、観測再開。
予測不能因子:観測対象《個体 U》。 誤差、許容値を逸脱。
再接続フェーズ開始。
風が動いた。ならば、
今こそ——
アーカ・ソリス王国の朝は、いつも規律から始まる。城門の開閉は鐘の数で定められ、衛士は同じ足音で石畳を踏む。千年のあいだ磨かれてきた秩序は、よく研がれた刃のように美しかった。
しかしその刃が、いま、わずかに鈍る音を立てている──カイン・バルドはそう感じていた。
衛士長官室の机上に、一通の命令書が置かれている。羊皮紙の端は新しい。最後の行に、ふたつの印が並んで押されていた。
宰相ルクレール・ディ・アークの署名と私印。
そして、宰相顧問リグナート・エヴェラールの副署。
「……姫君の“監視”を強化、か」
低くこぼれた声は、独り言というより自分自身への問いだった。王命の形式を取りながら、言い回しは微妙にずれている。これまでの文言は“保護”だった。たった一語の差が、胸の底に冷たい水を垂らす。
報告書の束を繰る。昨夜から、王女リュシア殿下とセリア殿下の所在が断たれている。護衛騎士ユルギンも連絡を絶ち、魔導通信は断続的に不通。城内の通路では臨時の検めが増え、近衛の配置が不自然に動かされていた。
(網が破れたのではない。誰かが、切った)
別の一枚が目に留まる。城下南部で「王族らしき人物」を見たという目撃報告書。内容は粗いのに、搬送印はやけに整っている。しかも、発信者名は黒い墨で塗り潰されていた。王命文書で、ありえない処理だ。
窓越しの風が、机端の紙片を揺らした。見慣れぬ筆跡で、短い言葉が走り書きされている。
《王城の中にいては、答えに辿り着けない》
《スクリプトを用いぬ風の娘を探せ》
アルスを呼び出すスクリプトを使わず、人を癒すという伝承。根拠薄弱な噂話だが、いまは整いすぎた根拠のほうが信じがたい。印影、稟議、規程──それらは心を均すための枠にもなる。
控えめなノックののち、侍女長付きの若い影が戸口に現れた。リュシア付きのリーネ・カルディナだ。元近衛の鋭さを目に宿しながら、声は小さい。
「団長様──侍女の通路まで監視が及びました。物資の搬送も理由を求められます。殿下方は……『ここで立ち止まるな』と」
続いて、書記官から回された小袋が届く。封蝋は乱暴に割られ、雑な手つきで戻された痕がある。中には細かな紙片の束──「宰相府・特別政策局」の文字が覗いた。聞き覚えのない部署名だ。
最上の紙には整然とした題が印字されている。
──《感情均衡指導案・第一草案》。
行間は冷静で、整っていた。だからこそ、そこに記された語のひとつひとつが、逆に生々しく肉に刺さる。
“情動の振幅は衝突の因となる。都市安定には、均衡が必要である。”
“アルス技術によるスクリプト干渉装置を応用し、不安・怒り・恐怖の平均値を操作可能。”
“初期実施は統制圏内に限る。対象群には上位職を含む。”
別紙の欄外に、王立アルス防衛師団の印。さらに薄紙の隅に、番号だけ記された“初期試験対象”の記録が貼られていた。
末尾の数字を見た瞬間、喉が軋む。(ユルギンの隊番号……)
失踪ではないのかもしれない。記録から“除去”されたのだとしたら。
拳に力がこもる。忠義は命令に従うことだ──そう信じてきた。だが、命令そのものが誰かの私情と都合で書き換えられたなら、それに従うことは忠義ではない。守るべきものを傷つける刃に、自分の剣を重ねることになる。
通路の向こうで鐘が短く鳴り、城壁の影がわずかに伸びる。カインは命令書の束を整え、最上の一枚を裏返した。裏面には、もうひとつの事実がありありと記されている──ふたつの印が並ぶこと。国家の顔と、影に潜む手。
彼は甲冑の留め金を締め、剣帯を肩に掛け直した。
「宰相府には“定例巡回”とだけ伝えろ。書面は私が上げる」
控えていた副官が迷いを含んだ顔でうなずく。「承知しました」。
カインは歩き出す。東塔へ。まずは姫君たちの私室だ。
扉は施錠され、封蝋が新しく付け替えられていた。窓は外から固く留められている。薄いカーテンが風に鳴り、机上のペン先が転がったまま止まっている。
床の敷物の端に、爪ほどの傷。捲ると、板の継ぎ目に細い空気の筋が走った。耳を澄ますと、遠いほうで人の気配が一瞬だけ行き過ぎる。
(隠し通路……玉座の背面に通じる)
リーネに目で合図すると、彼女は頷き、何も見なかったようにカーテンを整えた。廊下の角では、セリア付きのエスティナ・ローレンが書簡を抱え、巡回表に小さな修正線を引いている。何でもない手つきで、巡回経路の隙間をつくる線だ。
王と王妃に謁見を願い出ると、扉の内は深い沈黙だった。
王は俯き、王妃は一言も発さない。代わって一歩進み出たのはルクレール──冷たい炎のような眼差しで言う。
「騎士団長、王都の安定が最優先だ。王家への忠義は、秩序の維持によってこそ示される。姫君の監視強化は王命である」
その背後に、黒髪を束ねた顧問が静かに控える。視線は礼儀正しく伏せられているのに、刃のような熱がときどき漏れた。
胸の内で、何かが決定的にずれる音がする。忠義は命令の順守ではない。護るべきものを見誤らぬことだ。
謁見を辞し、階段を降りる。石の手すりは冷たく、指の体温だけが確かだ。
城門に近づくほど、空は明るくなる。商人が荷車を押し、灯りの消えた居酒屋からパンの匂いが流れてきた。どこにでもある王都の朝。だが、角という角に新しい詰所と見慣れぬ制服が増えている。施行の前触れは、既に市へ降りていた。
(“恐れない人間”を育てるのではなく、“恐れを感じないよう仕向けられた人間”を量産する──それを秩序と呼ぶのか)
東門の上、王城の窓に夜の灯がまだ揺れている。誰かの夜は終わっていない。
カインは外套の襟を立てた。目指す場所は二つ。ひとつは、古文書が“誤って”混ざることで有名な城下の記録庫。もうひとつは、市場裏の薬草店──夜明け前、アルスに頼らぬ癒やし手が立ち寄るという噂のある店だ。
報告には、もう誰の署名も要らない。必要なのは、自分の名と、自分の足。
胸の奥で、静かな火が音もなく灯る。
「……姫君の痕跡は、俺が追う。俺の判断で」
それは宣言というより、誓いだった。
彼は剣の柄に触れ、刃の重みを確かめる。忠義は与えられるものではない。選び取り、背負い続けるものだ。
風が向きを変え、垂れ幕が高く鳴った。
カインは風の来た方角へ、一歩を踏み出した。




