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感情制御で最強だけど、人類は見捨てられません!  作者: さとりたい
第2章「剣に誓いし忠義」

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第2話「影の兆し」(カイン視点)

 外郭詰所は朝と夜の境い目に沈んでいた。油の匂いが残る狭い文書庫に、鉄扉の隙間から薄い光が差し込み、棚に積まれた報告書の端だけを白く照らす。

 甲冑を肩で外しながら、カイン・バルドは無言で黒塗りの報告に目を走らせた。城下南部で「王族らしき人物」の目撃──それ自体は珍しくない。だが、報告者名が墨で潰され、搬送印の時刻が不自然に上書きされている。王命文書で、こんな雑な処理がまかり通るはずがない。


(誰かが、情報の通路を切っている)


 棚の奥に、見慣れぬ封筒が一束、乱暴に差し込まれていた。封蝋は割られたまま、送付元の記載にカインは眉をひそめる。


 ──宰相府・特別政策局。


 そんな部署は聞いたことがない。剣の柄に触れた指先から、冷えが腕を登ってくる。封をめくると、最初の一枚に整った書式が躍った。


 ──《感情均衡指導案・第一草案》。


 文面は淡々としている。だからこそ、そこに記された語の一つひとつが、静かに皮膚の下へ入り込んできた。


「……“情動の振幅は衝突の因となる。都市安定には均衡が必要”。“アルス技術によるスクリプト干渉装置を応用し、不安・怒り・恐怖の平均値を操作可能”……」


 紙が小さく鳴り、指が止まった。別紙の欄外に、見覚えのある印影が押されている。王立アルス防衛師団、記章《エンブレム》解析隊。さらに綴じ紐の奥、薄紙に印字された“初期試験対象”の一覧。名は伏せられている。だが部隊番号の末尾に、カインは嫌というほど見覚えがあった。


(ユルギンの隊番号……)


 喉の奥で何かが軋む。任務中に連絡を絶った、あの不器用な男。姫を捨てるような人間ではない。失踪なのか、あるいは──記録から“除去”されたのか。


 背後で床板が鳴った。若い詰所兵が、遠慮がちに扉から顔をのぞかせる。


「だ、団長……。宰相府の使いがさきほど来まして。“本日以降、王族関係の報告は一旦、宰相府直送に”と……。詰所印は廃止だそうです」


 カインは書類を伏せ、束をそっと封筒へ戻した。声が荒くならないよう、ひと呼吸置いてから口を開く。


「ここで見たものは、報告に記すな。定例処理に戻れ。すべて“変わりなし”だ」


「……はっ。しかし、それでは命令に……」


「命令どおりだ。『変わりなし』と伝える。字面の解釈は私がする」


 若い兵は迷いの色を浮かべたが、やがて敬礼し、足音を忍ばせて去った。扉が閉まると、文書庫は再び静寂に沈む。静けさの中で、カインの胸だけが荒く呼吸していた。


(これが国家の安定だと? 心をスクリプトで均すことが秩序だと?)


 机の角を握る手に力がこもる。彼は命令に背いたことがない。背く理由もなかった。命令は、王と国と民を守るためにあると信じていた。

 だが、誰かの執着や都合で書き換えられた命令に従うことは、忠義ではない。姫君を“対象群”の一部として扱う計画に加担することは、守るべきものを傷つけることだ。


 わずかな風が、棚の上の紙片を揺らした。昨日、衛士長官室で見つけ、懐にしまっていた走り書きが思い起こされる。


《王城の中にいては、答えに辿り着けない》

《スクリプトを用いぬ風の娘を探せ》


 根拠薄弱な伝承だ。だが今、根拠があるものほど信じがたい。確かな印影、整った稟議、緻密な数式──そのどれもが、心を縛るために整えられている。


 通路の向こうで、鈍い鐘が二度鳴った。城壁の影がすこし伸び、外の空気が冷たく澄む。カインは束を懐奥深くに収めると、甲冑の留め金を締め、剣帯を引き寄せた。


「宰相府には“定例巡回”とだけ伝えろ。王都東側、市壁沿いを回る。書面は私が書く」


 詰所兵の返答は小さく、しかし確かだった。「はっ」。

 通路に出ると、夜の冷えがまだ残っている。石畳を踏むたび、金具が微かに鳴り、音が壁へ吸い込まれていった。

 城下は早朝の仕度でざわめき始める。露台から吊り下げられた布が風をはらみ、商人が荷車を押し、子どもたちが走る。その当たり前の朝の下で、角ごとに新しい詰所、臨時の検め場、見慣れぬ制服が増えていた。施行前の手回しは、もう始まっている。


(いつから、秩序は“恐れない人間”ではなく、“恐れを感じないよう仕向けられた人間”を求めるようになった?)


 東門の上、王城の塔が薄く霞み、高窓には夜通し燃やされた灯がまだ揺れている。宰相の執務棟だ。王宮が眠る夜でも、あの灯だけは消えない。

 カインは視線を外し、門外へと足を向けた。城壁の影を伝い、市壁沿いを歩く。目指す場所は二つある。ひとつは城下の古い記録庫。王家の私的書簡が時に紛れ込む、古参司書の隠し棚。もうひとつは、市場裏の路地にある薬草店。噂では、夜明け前、アルスに頼らぬ癒やし手がそこへ立ち寄るという。


 石段を下りかけたところで、足が止まった。リーネが、角の死角からそっと現れる。掌に小さな紙片。セリアの癖のある文字が、震え気味に躍っていた。


《わたしは怖い。けど、逃げるのは嫌。姉は“静かに動け”って言う。どっちが正しい?》


 裏に、細い筆致で重ねられている。リュシアの手だ。


《恐れは悪ではない。恐れを選び取り、歩幅を整えよ。必ず合図を送る》


 短い往復の中に、姉妹の衝突と支え合いが同時に息づいている。感情を抑え過ぎる姉と、昂ぶりやすい妹。どちらかが正しいのではない。選び取り方を学ぶ最中なのだ。


「伝令は受け取った。言葉は残すな。……二人に伝えろ。『風上へ動け』と」


 リーネが頷き、気配を消すように去る。

 カインは外套の襟を立て直し、剣の重みを確かめた。命令に従っていれば守れた安寧は、今日からもう得られないだろう。だが、守るべきものの輪郭は、かえって鮮明だ。


 市壁沿いの風が、垂れ幕を高く鳴らす。

 彼は歩幅を一つ伸ばし、城の影を離れた。報告には、もう誰の署名も要らない。必要なのは、自分の名と、自分の足だけだ。


 命令の外で歩くことが、今日の忠義になる。

 そう心に定めて、カインは風の向こうへ踏み出した。



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