伊勢郊外のっ拠点近くのお寺と神社に寄進と訪問。近況報告しながら迷惑かけていないか、困りごとないかを聞く
伊勢の城下での挨拶を終えると、博之はその足で伊勢郊外へ向かった。
港、寺、神社、城下の屋形。そこまで一通り回った上で、最後に伊勢郊外の寺社へ顔を出す。
もともとここには小さな横丁を作り始めていた。だからこそ、港で新しく動き始めた報告も、
きちんとしておきたかった。まずは郊外の寺へ向かう。
住職は博之の顔を見るなり、少し驚いたように笑った。
「また来られましたか。いや、伊勢の港でも横丁を始められたとか。ずいぶん早いですな」
博之は深く頭を下げた。
「はい。九鬼様のお力添えをいただきまして、船で伊勢の港へ入りました。
港の顔役へ一万文を納め、港近くのお寺と神社にも寄進してご挨拶し、それから伊勢の城下の
屋形にもご報告に参りました」
「そこまで回られたのですか」
「はい。今、港から城下を回って、松坂へ戻る前にこちらにも寄らせていただいた次第です」
博之は一息つき、続けた。
「港で横丁を始めたご報告と、こちらの郊外の横丁で何かご迷惑をおかけしていないか、
その確認も兼ねております」
住職は穏やかに頷いた。
「いやいや、本当に短い間に、いろいろと筋を通していただいてありがたいことです」
「こちらこそ、助かっております」
「寺社仏閣には、願い事をされる方は多い。しかし、きちんと寄進をして、
商いの報告までしてくださる町人は、なかなか多くありません。ましてこれほどの額を出す方は、
そうはいません」
「大げさでございます」
「個人の店では、なおさらですな」
住職は少し笑った。
「国持ち大名にでもなられるおつもりですか」
博之は苦笑した。
「いえいえ、飯屋でございます。ただ、今は三百人以上の所帯になっておりまして」
「三百人」
「はい。松坂の城下、郊外、港、街道沿い。さらに伊勢の郊外、そして今日から港。
人が増え続けております」
「それはもう、町の一角のようなものですな」
「そうなんです。だからこそ、挨拶を怠ると怖いのです」
博之は少し声を落とした。
「こちらの郊外でも、採用を少し始めたという報告は受けております」
「そうですか」
「ただ、おそらく半月で半分くらいは辞めるだろうと思っております」
住職は目を丸くした。
「そんなに辞めると見ておられるのですか」
「はい」
博之はため息まじりに頷いた。
「松坂では、伊勢松坂屋の名がだいぶ通りました。飯も寝床もあり、屋敷を借り、
布団も買い、湯浴みまで整えています。それでも、半月で三割は辞めます」
「それほどに」
「何度も繰り返して、そういうものだと分かってきました」
博之は続けた。
「薪くべ、串刺し、掃除、鍋洗い。そこを嫌がる者は多いのです。
最初は飯に困っている者を何とか食わせたいというところから始めました。けれど、
店が大きくなると、求めるものも増えました」
「当初の目的とは少し違ってきているわけですな」
「はい。違ってきています」
博之は正直に答えた。
「ただ、そこを教育も含めてしっかりやれば、本当にいい暮らしができるとも思っています。
飯と寝るところはある。小遣い程度とはいえ給金も出る。湯浴みも整え始めている。
まかない飯も、まあまあうまいと自負しております」
住職は笑った。
「飯屋のまかないがうまいというのは、大きいですな」
「はい。ただ、それでも合う合わないはあります」
「それは当然です」
「合わないのに長くいても、向こうも不幸です。ですから、辞める者が出ること自体は
仕方ないと思っています」
住職は少し考えるように頷いた。
「松坂屋さんの勢いを聞いて、勝ち馬に乗るような気持ちで来る者もいるでしょうな」
「おそらく、います」
「しかし、ここは松坂とは違います。まだ名も十分に通っていない。その隔たりは大きいでしょう」
「そう思います」
博之は言った。
「港でも始めましたが、そこでも半月で半分辞めるということは起こると思っています。
それでも、残った者を大事にしたい」
「残る者が、店の根になりますからな」
「はい」
博之は少し声をひそめた。
「ここだけの話ですが、半月が終わるごとに、十文ずつ給金を上げております」
「十文ずつ」
「はい。残って働ける者には、ちゃんと報いたいのです。それでも商いとして
回るくらいの利益は出せております」
住職は感心したように言った。
「なかなか商売しておられますな」
「商売というか、出した分をどこかで回収しないと続きませんので」
博之は少し笑った。
「ただ、給金が増えると、今度は貯め込む者も増えます。飯と寝床がありますから、
金を使わなくても暮らせる。そうなると、また別の使い道を考えないといけません」
「湯浴みや買い物、あるいは町との付き合いですな」
「はい。金は持たせるだけでは危ない。土地に落とし、人に回し、信用に変える。
そのあたりを教えていかないといけないと思っています」
住職は静かに微笑んだ。
「飯屋というより、人を育てる場になっておりますな」
「そうならざるを得ませんでした」
博之は深く頭を下げた。
「こちらでも、読み書きや数の計算を教えられる方、また働き口に困っている者がおりましたら、
ぜひお声がけください。もちろん、うちの者が迷惑をかけているようなら、遠慮なく言ってください」
「分かりました。こちらでも見ておきましょう」
寺を出ると、博之は次に郊外の神社へ向かった。
神社でも、ほぼ同じような話をした。
伊勢の港で横丁を始めたこと。
九鬼様の紹介で船で入ったこと。
港の顔役、港近くの寺社、伊勢城下の屋形へ挨拶したこと。
そして、この郊外の横丁が迷惑をかけていないか確認に来たこと。
神社の者は、少し驚きながらも好意的だった。
「そこまで丁寧に回られるなら、こちらとしても安心です」
「ありがとうございます」
「今のところ、こちらの横丁で大きな揉め事は聞いておりません。むしろ、
飯がうまいと聞いております」
「それはありがたいです」
「ただ、人が増えれば、いずれ小さな揉め事は出ます」
「その時は、すぐに知らせてください」
博之は頭を下げた。
「松坂から来た者が偉そうにしていたり、地元の者を軽く見ていたり、仕入れで揉めたりしたら、
早めに直さねばなりません」
「分かりました」
神社の者も、採用の話に興味を持った。
「半月で三割、五割辞めるというのは、なかなか厳しいですな」
「はい。ただ、残る者は強いです」
「飯に困った経験がある者ほど、続くのですか」
「そういう傾向はあります。けれど、それだけでは足りなくなってきました。
今は、読み書き、計算、挨拶、帳面も必要です」
「ただの下働きでは終わらないわけですな」
「はい。うちで踏ん張れば、店を任される道もあります。伊勢の港、郊外、街道、
いずれは神宮の端。そういうところへ出ていけるかもしれません」
「それは、若い者には夢がありますな」
「夢だけ見て薪くべを嫌がると辞めますけどね」
その一言に、神社の者も笑った。
一通りの話を終えると、博之はようやく伊勢郊外の横丁へ向かった。
港から城下、城下から寺社、寺社から郊外。
足は疲れている。
だが、やるべき挨拶はできた。
ヨイチが横で言う。
「今日だけで、港の顔役、寺、神社、城下の屋形、郊外の寺、郊外の神社。だいぶ回りましたね」
「銭もだいぶ飛んだ」
「でも、線ができました」
博之は少し考えてから頷いた。
「港、城下、郊外。まだ細いけどな」
「細くても、線です」
「そうやな」
伊勢郊外の横丁が見えてきた。
まだ松坂ほどの賑わいはない。だが、竈からは湯気が上がり、握り飯を買う旅人の姿もある。
博之はその様子を見て、小さく息を吐いた。
「まずまずやな」
「これからです」
「そうや。ここを育てて、港とつなげる」
そして、その先に神宮がある。
博之は疲れた足を引きずりながらも、少しだけ笑った。
伊勢松坂屋は、まだよちよち歩きだ。
だが、その一歩一歩は、確かに伊勢の土地に足跡を残し始めていた。




